207 遊戯考[茶湯・煎茶・挿花・盆石]
参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
茶湯につきましては、この稽古ボードの「
茶の湯入門」をも併せてご覧下さい。SYSOP
[茶湯]
茶の我国に伝来せし年代詳ならず。
嵯峨天皇弘仁六年、勅して畿内及び近江、丹波、播磨等の諸国に茶を植ゑしめし事あり。
順徳天皇建保二年、将軍源実朝飲酒に因りて病に罹る、僧栄西為に茶一盞を献じ、称し
て良薬と為し、別に一書を献じ茶の功を記す。
今世に伝ふる所の喫茶養生記或は是ならん。
其の法に方寸の匙を用ゐることあれば、其の茶は則ち抹茶なるべし。
南北朝の初、茶会と称する事盛に行はる。
而して其の茶会は専ら茶を賞するにあらずして、其の席に珍器を陳ね、酒肴を設け、本
茶非茶を判して勝負を決す。
本茶とは栂尾の茶を云ひ、非茶とは本茶に非ざるを云ふ。
時に晋(手偏+晋)紳シンシン(貴顕の人)武家栄枯地を易へ、武家は大に富豪なりしを以
て、佐佐木道誉等の大名、頻に茶会を催し、盛饌を設け、沈香、麝香、沙金、絹帛、大
刀の類を以て賭と為し、勝てば則ち之を己に入れず、其の物を挙げて之を其の席に在る
田楽、白拍子等に投与す。
其の後足利義政洛外東山に退隠し、東求堂に居り、堂内に四畳半の茶室を作り、同仁斎
と名づけ、屡茶宴を設けて品質を論じ、同朋真能、及び奈良称名寺の僧珠光等、茶事に
通ずるを以て、常に之に侍せしむ。
是より茶事盛に天下に行はる。
真能一に能阿弥と称す。
其の子真芸、芸阿弥と称し、真芸の子真相、相阿弥と称す。
共に茶事を以て義政に仕ふ。
珠光始て台子の式を定む。
是より後織田信長、豊臣秀吉等を初め、将士より市賈に至るまで、之を学ぶ者頗る多し。
信長は天正六年正月元日に、安土城に於て、将士に茶を饗し、送迎配膳を躬らせり。
また秀吉は天正十五年、北野に於て茶湯の会を催し、高札を京都奈良等の地に立てゝ、
諸国の茶人を召集せり。
是に於て名器を携へて来集する者極めて多く、茶席を各所に設く。
秀吉之を巡覧し、毎席之に臨みて茶を喫せり。
当時千宗易茶事を以て寵を秀吉に受く、千利休是なり。
利休は堺の市人にして、茶事を真能の末流なる北向道陳と、珠光の流を受けし武野紹鴎
とに学び、諸家を大成して式法を定めたり。
故に後世利休を以て、茶道の中興の祖と為す。
利休の門弟古田織部正重勝、織田有楽軒長益、薮内紹智、細川忠興等尤も名あり。
重勝は徳川秀忠の師範にして、茶道の和尚と云ふ。
茶は禅宗茶湯の式より出でたるものなれば、其の師範となる者を和尚とは云ひしならん。
重勝の門弟小堀遠江守政一、徳川家光の師範たり。
また片桐石見守貞昌茶法を桑山宗佐に学ぶ。或は利休、若しくは小堀政一に学ぶとも云
ふ。
また船越吉勝、多賀左近の二人あり、政一と共に茶家宗匠と称す。
また利休の孫宗旦に至り、其の子分れて三派となる。
乃ち二子宗佐を表流と称し、三子宗室を裏流と称し、季子宗守を武者小路流と称す。
また重勝の流を織部流と称し、政一の流を遠州流と称し、紹智の流を薮内流と称し、貞
昌の流を石州流と称す。
其の余の流派極めて多し。
茶室には一に小座敷コザシキと云ひ、また数寄屋スキヤと云ふ。
離座敷にして、四畳半、四畳、三畳、二畳等の数種あり。
家内の一部を区劃して茶室となすを囲カコイと云ふ。
茶室の一隅には必ず床ありて、掛物或は花入を具す。
また窓ありて明を室内に取る。
冬季は炉を設く、その位置によりて、向炉隅炉等の称あり。
客の茶室に出入する所を潜口クグリクチと云ひ、またニヂリ上りとも云ふ。
主人の出入する所を勝手口と云ひ、また茶立口と云ふ。
其の形状に由りて、火竇口、また櫛形等の称あり。
水屋ミヅヤあり、茶室に属す。
露地は茶室に到るの小路にして、此に待合、堂腰掛、中腰掛あるものを三重露地と称し
て、正式のものとすれど、多くは中潜を以て内外を分ち、内露地、外露地と称するもの
を二重露地と云ふ。
露地には、石を配置して行歩に便にし、庭中には多く樹木を植ゑて、幽静の趣を添ふ。
腰掛はまた待合云ふ。
来客先づ相会し、また中立の時に休息する所なり。
而して二重露地には、外腰掛、内腰掛の二あり。
作意(掛け物)
ほとゝぎす鳴つる方をながむれば たゞ有明の月ぞ残れる(備前老人物語)
茶壷
誰もきけ名づくる壷の口びらき けふはつかりの声によそへて(足利義政)
返
初雁を聞へあげゝることのはを いやめづらしき雲のうへまで(能阿弥)
(醒睡笑 八)
[次へ進んで下さい]