10 歌集のこと
参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
歌集には、勅撰あり、私撰あり、家集あり。
勅撰は、歌人に勅して、古今の歌を選択編修せしむるものにて、醍醐天皇の朝に撰ばれ
たる「古今和歌集」を始とし、後花園天皇の朝に於る「新続古今集」に至るまで前後二
十一度の撰修あり。
其の中に於て「古今」、「後撰」、「拾遺」を三代集と云ひ、之に「後拾遺」、「金葉
」、「詞花」、「千載」、「新古今」を加へて八代集と云ひ、また之に「新勅撰」、「
続後撰」、「続古今」、「続拾遺」、「新後撰」を加へて十三代と云ひ、更にまた「玉
葉」、「続千載」、「続後拾遺」、「風雅」、「新千載」、「新拾遺」、「新後拾遺」、
「新続古今」を加へ、総称して二十一代集と云ふなり。
或は「新勅撰」以下「新続古今」に至るまでを十三代集と云ひ、之に「古今」以下の八
代集を加へて、二十一代集とす。
「新続古今集」以後にも、時に撰集の命なきにあらざりしが、毎に果さずして、此事遂
に全く廃絶せり。
但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。共
に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、勅撰の春夏秋冬等を以て分
類し、毎首に題を加へたるものとす。自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中
に算入せず。
また後亀山天皇の朝に「新葉和歌集」あり、南朝の君臣の歌のみを集む。もと宗良親王
に私撰なりしが、勅撰に准ずべき詔ありしかば、更に校訂して之を奏上せられしと云ふ。
また二十一代集の外なり。
勅撰を奏するに式あり、之を編修するに法あり。
先づ歌人に勅して歌を献ぜしめ、百首の披講を行ひ、其の後始て撰集に従事す。而して
数月にして成るあり、数年を経ることあり。功終りて之を奏覧すれば、勅して竟宴を行
ふを以て例とす。
また勅撰の時は、予め撰者を定め、和歌所を置く。和歌所に別当、寄人、開闔カイコウ等の
役員あり。別当は其の事を総裁し、開闔は其の事務を整理す。寄人は即ち撰者にして、
堪能の歌人を以て之に補す。一人に命ぜらるゝことあり、数人にて勅を奉ずることあり。
藤原俊成の特に和歌所の食邑として領地を賜ひ、子孫永く之を世襲せしが如きは特例な
り。故に其の子孫たる歌人は、互に其の任に当らんことを欲し、党を樹てゝ相競ふに至
る。後世為兼と為世との争の如き是なり。
独り撰者のみならず、其の他の歌人もまた其の歌の勅撰に入るを以て名誉と為し、互に
之を規求せり。鴨長明が、僅に一首の歌を「千載集」に入りしを以て、生前の面目と為
し、平忠度が歌集を俊成に致して、死後の栄を希ひしが如き是なり。
然るに勅撰に入るゝ歌は、撰者の意に由りて添削を加ふることあるを以て、為めに入撰
を拒むものなきにあらず。藤原公任の「拾遺集」に於る、源師俊の「金葉集」に於る、
頓阿の「風雅集」に於る、皆此類なり。
私撰は、私に人々の歌を撰集せるものにて、「万葉集」以下、「新撰和歌」、「古今六
帖」の類是なり。
家集は、其の家々の歌を蒐集せるものにて、柿本人麻呂、山辺赤人等を始めとし、世々
の歌仙の集極めて多し。
其の他五十首、百首、千首等の如く、歌数を限りて集めたるあり。
「三十六人集」、「百人一首」等の如く、歌人を限りて集めたるもあり。
僧侶の歌のみを集めたるあり、武人の歌のみを集めたるあり、類題、明題の歌集あり、
教訓の歌集あり、名所の歌集あり、種類多端にして、枚挙に遑あらず。
また歌集伝授と云ふ事あり。「古今集」若くは三代集の秘事口伝を授くるものにて、此
事東常縁より始まると云ふ。
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