03b 名物裂の種類
 
〈モール〉
 莫臥児,莫臥爾,回々織,毛宇留若しくは毛織などの字が当てられています。モール
織と呼んで名物裂に編入されていますが,この織物は印度モゴール国の所産で,南蛮貿
易によって舶載されました。従って文様は著しく印度的であり西域風です。名物裂の名
称から云いますと,この裂は生産地の名称を付けた部類に属します。『和漢三才図会』
には,
 
 按莫臥爾天竺国名、所出之綺、似緞閃而有小異、本朝所織者亦不劣
 
とあって,どんすに似ていますが少し異なると云っています。金,銀の筋金を織り込ん
で文様を出したもので金の場合は金モール,銀の場合は銀モールです。中国製品と著し
く変わっている文様構成,金襴と異なる感覚,これらの目新しさが当時の人々を惹き付
けたものでしょう。茶入にも表装裂にも使用されていますが,裂地の良さもさることな
がら,新しい風潮を歓迎した時代は,この珍しい製品を茶人等は見逃すことはしません
でした。
 
〈更紗サラサ〉
 更紗裂にも名物があります。多くの名物裂は,その殆どが織物ですが,更紗は文様染
です。織物の持つ重厚さはありませんが,文様と色彩からは限りない親しみが感じられ
ますのは,更紗裂の持つ強味と云えましょう。
 わが国に漸く西欧の近代文明の息吹が吹き付けられ始めた,室町末期から桃山時代に
亘って更紗裂は渡来しました。鉄砲の伝来や切支丹の伝来が,わが国民に大きな驚きを
与えたと同じ位,裂愛好者には更紗裂の舶載は限りない魅力と驚きでしたでしょう。南
蛮貿易による南蛮船によって更紗裂が舶載されてから,徳川末期まで可成りの数量が輸
入されましたが,名物裂に編入される資格を持つ作品は数少なく,舶載年代もその初期
のものに優れた作品が多い。
 更紗には砂室染,暹羅染,沙羅染,沙羅陀,更多,更紗,佐羅佐,華布などいろいろ
の字が当てられています。更紗と云う語音は,元印度の Sirada から出たものが多かっ
たので,その地名が転化されたものと云われていますが,更紗染を製作する地域は,印
度,ペルシャ,暹羅シャム,スマトラ,ボルネオ,ジャバでした。
 わが国へ舶載された更紗裂は印度産のものが一番多く,暹羅や中国製品がそれに次ぎ
ました。当時珍しい木綿地に美しい色彩を駆使して,エキゾチックな文様を展開させた
のですから注目を集めたのは当然でしたでしょう。
 
〈錦〉
 名物裂に数は少ないが錦があります。錦と云う織物は二色以上の色糸によって文様を
織り出したものを云いますが,錦には経糸によって文様も地も出す経錦と,緯糸によっ
て文様を出す緯錦の二種類ありますが,名物裂においては,その組織上の点は名物編入
に関しては重要性はありません。
 錦は,二色以上の色糸によって文様を織り出した織物であるため,美しい織物で,中
国においては漢代から既に製作されていました。わが国においても既に,飛鳥時代から
奈良時代にかけては錦の製作は盛んになされ,当時の遺品も数多く現存しています。そ
れらの中には中国からの舶載もありますが,わが国の製品も多い。殊に,奈良時代には
唐文化の影響により,染織工芸の技術は極度にまで発展し,芸術味豊かな作品を数多く
製作しています。
 錦などは数多くの作品を製作し,その織法は奈良時代を過ぎても受け継がれ,平安,
藤原,鎌倉,室町,桃山時代へと,時代の移り変わりによって,錦の作風は当然,変化
を観せているものの,製作され需要に応えて来ました。
 勿論,名物裂と呼ばれるようになった染織品が舶載され始めた頃においても,錦の製
織は行われていました。金襴や緞子のように,その作品がわが国において未だ製作され
ていないものに対しての関心は当然と考えられますが,錦の場合は,この状況と異なる
ものの国産の錦は名物裂に選ばれていません。興味を惹く現象なのです。
 このことは,国産の錦に選ぶべき作品が存在しなかったのか,奈良朝以来連綿として
日本人の心の底に潜む「遠物愛好」の思想が強く働きかけてのでしょうか。
 確かに,錦の製作は藤原時代を過ぎた頃から,往年の奈良時代に観られたような,色
調において文様において優れた作品は影をひそめた傾向にあります。そして色調におい
ても文様においても画一的なものが製作されて,類型化したものになってしまいました。
時代の推移であり,社会構成の結果なのです。錦の織法から観て,さほどに劣った作品
ばかりが製作されていたとは思いません。ただ,類型化した色調,文様構成が,ときの
文化人たる茶人等の好みに適さなかったためでしょう。
 茶人には好みがあります。珠光好み,利休好み,織部好み,遠州好みなど,数えれば
限りなくありますが,これらの茶人等の好みと云うのは,単なる好き,嫌い,と云う性
質のものとは大いに異なります。茶人等の好みと云うものは,自分が学ぶ茶道の法則も
想定し,規定する具象化にまで発展し,また,それによってその茶人の系譜を知らしめ
る一つの登録商標的役割をも果たすことになりました。その道の権威者等の「好み」は,
それぞれの系譜に学ぶ人等にとっては遵奉すべき法則でもあったのです。そしてその「
好み」が名物に直結する可能性を強く持っていましたが,その「好み」に適する国産の
錦が無かったのかも知れません。と同時に「唐物崇拝」の思想も全面的に否定すること
も出来ないでしょう。
 しかし,茶人等の見識高い選定は,日本の染織工芸界に大きい警鐘を打ち鳴らし,改
良発展への一大指示を与えたと云っても過言ではないでしょう。
 
〈その他の名物裂〉
 風道フウツウと呼ぶ織物があります。天正頃明ミンから舶載され,やがてその織法も伝えら
れた独特な地合を持つ絹織物です。表と裏と二重織の組織になって,表の文様が裏にお
いては地となっているものを風道織と云いました。
 単に名物とか,名物裂とか云って,固有の名称が付けられていない種類の裂がありま
す。海気カイキ,天鵞絨ビロードなどがそれです。海気は桃山期に舶載されたもので,海黄な
どの当て字も用います。種類も二,三あって麻糸によって織ったものを麻海気と云い,
文様を浮織したものを紋海気,縞のあるものを縞海気と云いました。地色は多くは一色
で,黒,暗緑色,萌黄,紫,紺など,一色で文様のある紋海気などが佳品とされていま
す。
 天鵞絨は,イスパニヤ語の Vellodo から転化したものと云われています。いわゆる南
蛮貿易によって舶載されました。恐らく舶載された当時は,この美しい織物に驚異の眼
を向けたことでしょう。無地ビロード,文様のあるビロード,更に縞ビロード,など異
国情緒の溢れた珍貴な織物であったに相違ありません。武将等は好んだらしく陣羽織な
どに仕立てています。ビロードは元来,伊太利イタリア,西班牙スペイン系の織物ですが,それ
が中国に伝わり,更にわが国へと伝えられました。わが国においては,江戸期の慶安ケイ
アン年間に京都において織り出されました。
 茶入の袋にビロード地を用いたのもがないではありませんが,ビロードの多くは他の
用途に需要がありました。

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