02a 名物裂発生の基盤
名物裂と云う名称が何時頃から始まったのでしょうか。名物裂の選定が何時頃為され
たのか,そのことも未だはっきりとされていません。名物裂は,いわゆる名物(茶器類
の名物)に依存して,その名称が発生したと考えられていますが,そればかりてもない
でしょう。裂の名称は茶器の名物と同時期の命名ではなく,茶器類の名物が,裂に対し
て可成り時間的に先行するものと考えられます。裂の鑑賞は重要性を持たず,書画,茶
器類に対しては,飽くまでも第二,第三次的の存在に過ぎませんでした。
常に添えもの的の存在であった裂に,名物裂と云う名称が,何時頃から付けられ,そ
して名物に編入されたかと云うことは,名物裂研究において一つの問題です。
永正エイショウ八年相阿弥の奥書ある東北大学本の『君台観左右帳記』,群書類従本の文明
ブンメイ八年能阿弥の奥書あるそれを見ても,裂類は名物編入を前提とする如き取り扱いは
受けておらず,寧ろ全然,裂類の記載が見られません。東北大学本の『君台観左右帳記
』には,その終わりに近いところに,
一 画藁と云て、名筆の絵共をあつめて、さうしにして、金襴にて表紙をして、ちか
いたなにかをかれ候(後略)
の一項目がありますが,名家の絵をあつめて草子にしたものを画帖と云って,この表紙
に金襴裂を使用したことが記されていますが,裂の記事はこの位なのです。
いま一つ,この群書類従本や東北大学本に比べて誤脱も多く,江戸期の写本とされて
いる東京国立博物館の「大永ダイエイ三年宗珠」の奥書ある『君台観左右帖記』を見ます
と,「唐物之名」の項の最後に,
金襴、金沙、紋沙、金羅、印金、繻子、段子、綾羅、錦繍、素紗スシャ、梅花モイクワ、邯鄲
布カンコウフ、かん(門構え+敢)道カンタウ、
などの裂類が記載されています。他の記載品と同様に舶載された染織品と思料されま
すが,この記載が名物裂編入にとの位の役割を果たしたか判りませんが,この記載は注
目されるものです。『君台観左右帖記』に記載された作品は名物編入に一つの可能性を
持ちますが,ただこの記載は,東北大学本にも群書類従本にも見られなくて,東京国立
博物館本にのみ見られる記載です。
元禄ゲンロク七年刊行の萬宝全書には,後に名物裂と呼ばれるようになった裂類を時代裂
と称しています。この時代裂を名物裂として取り扱ったのは,寛政カンセイ三年(1791)に
上梓された松平不昧著の『古今名物類聚』名物裂の部二冊でした。この二冊には,緞子,
金襴,間道及び雑載に分けて約百五十種ばかりの名物裂を彩色によって図示されていま
す。これは松平不昧公が自分で名物裂を選定したと云うことではなく,この時代までに
既に名物裂と呼ばれていたものを編集したもので,ここに収録されたものが名物裂の全
部ではありませんが,彼が見聞きしただけでも名物裂は,既に百五十種に上っていたの
です。
この『古今名物類聚』以後に発行されたもので,名物裂を扱っている書籍類は,必ず
『古今名物類聚』に拠っています。文化ブンカ元年(1804)九月に発行された『和漢錦繍
一覧』には,名物裂は更に詳しい名称と年代の考証が載せられ,裂の種類も緞子百四十
三種,金襴百四十五種,漢島三十五種,錦,風通,更紗海気など十種,印金五種及び追
加四種,合計三百四十二種も数えています。江戸時代の文化初期頃には名物裂もその数
は既に三百四十余種になっていたのです。
名物裂と明確に規定し,その後の名物裂の取り扱いの拠り所となった『古今名物類聚
』は,松平不昧公の著述ではありますが,不昧公が彼自身の見識によって所載した全部
の名物裂を選定したものではありませんでした。不昧公の選定になる作品も可成りある
と推測されますが,既に寛政初期頃までには名物裂と云う呼称が存在し,普及していた
のではないでしょうか。それは,『古今名物類聚』の序文に不昧公が記していることに
よっても知られます。即ち不昧公は,拝見出来る品は親しく観察し,拝見出来ない品に
ついては所蔵者の蔵書や図記を求めて校合して,その正しいものを選んだ,とあります。
その対象品は大名物であり名物であり中興名物でした。そしてそれらに付随した染織品
が名物裂として二冊に収められているのです。
名物裂と云う呼称が不昧公以前において,何時頃から使用されていたかは,はっきり
と知ることは出来ませんが,名物裂の発生が,いわゆる「名物」ものに付随したことは
知られます。茶入や書画の名物と異なり,名物裂はその初めは,飽くまで「名物」もの
に付随した裂でした。附属した裂とは云え裂の作風は実に優秀なものが選ばれています。
名物をより美しく,より価値高く,より威厳を持たせるための一つの演出でしたが,選
者等は高い鑑識眼の持ち主でした。そしてその人等は茶人でしたのです。
名物裂の名称が行われた時代を考えるのに,一つの新史料を昭和初期に明石染人氏が
提示されました。明石氏は『名物錦繍類纂』を出版したとき,その解説書の中に次のよ
うに述べています。
(前略)『古今名物類聚』上梓の寛政三年に先立つこと百九十五年前の文禄ブンロク四年
(1595)七月十五日の奥書のある,別所吉兵衛の書名に係る『名器録』と称する稿本の
中に,「銘物地也(矢扁+也)」の条目あることを見出したので,名物裂の名称は既に
桃山時代に可成り有名になって,茶人間に珍重されていたことを知ることが出来,それ
をここに明らかにしておきたい。
この『名器録』は大部分藤四郎以下の名物茶入の記事を載せていますが,その巻末に
「小壷の由来」と題して藤四郎の略伝,その家系列伝,作品,茶入流,当時の作者を挙
げ,末尾に文禄ブンロク四歳乙未七月十五日,別所吉兵衛と署名してあり,更にその次に「
銘物地也(矢扁+也)」と題して,
漢東切と云名は古き見事漢渡一反買取夫を貸切に裁銘々に分けて遺しける其世話を致
たる人の名さして何漢東と申ける又其品いろいろ名物と名付るも有一反と云は巾四尺
位に一丈余りのもの也
と冒頭して漢東十九種,古金襴三十二種,緞子十一種の名称と略説並びに時代を書いて
いるのです。これを見ますと『古今名物類聚』や『和漢錦繍一覧』の底本であるような
気がするのです。とにかく『名器録』の出現とその存在の意義は可成り我々にとっては
深いものであると欣んでいます。
明石氏は『名器録』の紹介をされ,名物裂と云う名称は桃山時代に既に確立していた
と説かれていますが,傾聴すべきことでしょう。
前述のように桃山時代に名物裂と云う呼称が確立していたとしますと,名物裂と云う
名称が,名物の名称が出る如く,屡々見られてもいいと思われますが,少しも見られま
せん。桃山時代には茶道を大成した千利休,その流れを汲む面々が輩出していますが,
それらの茶人等が名物裂と明記しているものは見あたらないようです。山上宗二の『茶
器名物集』を見ても名物裂と云う言葉は見られませんし,『神谷宗湛日記』にも見られ
ません。「名物」ものの再編成を行い「中興名物」なる新しい「名物」を追加した小堀
遠州であれば,名物裂確立もなしに得られたと考えられますが,それらしきことは彼の
著作にも,口伝書にもありません。
そうしますと,何時頃からの名称でしょうか。珠光,利休,織部,遠州等の大茶人等
は,自分等の愛好する書画や器物を装飾するために,優れた染織品を選んでいます。装
飾するためとは云うものの,彼等の茶道芸術の具現化を,また,彼等の茶道理念の芸術
表現を染織品に求め,各自の見識において選んでいるのです。従って,珠光には珠光風
が,利休には利休風が見られますが,これを「好み」とも云っています。この「好み」
が後になって,利休好みの緞子などの場合は,利休緞子となり,それが名物裂に直結さ
れました。実マコトに簡単な構成ですが,こんな仕組みは何時頃からでしょうか。著者は,
近世茶道が大成された遠州以後のことであると考えます。
何れにしましても名物裂に編入された染織品は,大名物,名物,中興名物のいわゆる
「名物」ものに付属した染織品であり,茶道の権威者又は茶道に造詣深く,社会的に知
名の人等の好みの染織品が第一条件になっていたと考えられるのです。従って,茶道に
造詣深くとも無名の人等の愛好した染織品は,名物裂に編入される可能性は実に薄かっ
たのです。
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