02 名物裂発生の基盤
 
             名物裂発生の基盤
 
                         参考:淡交新社発行「名物裂」
 
〈名物裂発生の基盤〉
 裂キレの鑑賞は難しいとよく云われますが,他の美術品を鑑賞するのと同じで,寧ろ他
の美術品の鑑賞よりも楽かも知れません。ただ,わが国においては染織作品の鑑賞と云
うことはなされませんでした。絵画,彫刻或いは他の工芸品は,必ず全面的でなくとも
鑑賞と云う場を持っていましたし,持たされていました。
 これに対し染織作品は,用途が第一と見なされがちで,鑑賞の立場からこれらの作品
を採り上げていません。鑑賞の対象に成り得る作品が製作さるなかったこともあるかも
知れませんが,染織作品は長い間美術鑑賞の対象外に置かれていました。従って一般に,
染織作品に対しての関心や心得が薄かったのかも知れません。
 優れた作品は,どの分野の作品においても鑑賞の対象になるものです。優れた染織作
品に対して鑑賞と云う態度を醸成したのは,何と云っても室町時代中期以降に発展をみ
た茶道であり,茶道に志した茶人等の功績でしょう。茶人等は染織品の鑑賞が第一目的
ではありませんでしたが,結果的にみて裂の鑑賞が茶道芸術の一つの役割を果たすこと
になりました。また更に,茶人等が茶道芸術に対する自己の芸術観の具体的表現を染織
作品に求めたことは,染織作品の鑑賞に一層の拍車を加えることになったと云えましょ
う。名物裂の鑑賞がそれです。
 
 名物裂発生の基盤は,茶道発展の過程において察知は出来ますが,それでは名物裂と
は如何なるものか,と尋ねられますとはっきりした答を出すことは誠に困難でしょう。
 名物裂の発生基盤が推知されると云うことと,名物裂がはっきりしないと云うことは,
聊か矛盾しているようですが,名物裂なるものが漠然として,究明されているようであ
りながらそうでないため,矛盾観が湧くのかも知れません。名物裂発生の基盤は知られ
るものの,名物裂の発生が一つの基準によっていないため,その名称にしても,時代に
しても,また種類や数量においても確実性の薄い結果になっています。
 一般に名物裂と云う名称で総括されている染織品は,主として中国において製作され
た製品と,南方の諸国において生産された製品で,それらの製作年代も中国においては
宋,元,明,清の各時代に亘るとされ,南方諸国の製品は16世紀から17世紀に亘る製作
で,その生産地も限られておらず地区も広い範囲に及びます。
 名物裂と呼ばれる染織品の種類は,金襴キンラン,銀襴,緞子ドンス,間道カントウ(縞織物),
モール,印金インキン,金紗キンシャ,海気カイキ,更紗サラサ,ビロードなどと数えられ,その総数
は四百点近い数とされています。
 これらの製品は,日明貿易や,いわゆる南蛮貿易によって舶載されたもので,当時は
上流階級の人等が衣服に使用したり,茶道に親しむ人等が愛用して名物と呼ばれる茶器
などを包む袋裂に用い,また,名物と称せられた書画の表装裂に仕立てたため,名物裂
の名称が生じたと云われています。
 従って名物裂なるものは,名物と称せられた茶器や書画に付随して発生したと考えら
れていますが,始末の悪いことには,その「名物」の定義が頗スコブる曖昧であるため,
それに付随して発生したと考えれる名物裂の内容も曖昧にならざるを得ません。
 名品の茶入などに名物と云う冠詞を付けたのは,足利義政以来,小堀遠州であったと
する説は,既に定説化されていますが,そのことは暫く肯定するとしても,選者等は如
何なる観点から,どんな基準によって名物を選定したのでしょうか。
 
 名物裂がその発生に直接の拠点と考えられる茶道関係の「名物」と称せられているも
のに,大名物,名物,中興名物の三別があり,その所属については,東山御物,柳営御
物,遠州名物,八幡名物,千家名物,本願寺名物などがありました。またそれらの他に,
茶人等の間にも自家の名称を付けた名物があり,松屋名物の如きはその著名なものです。
 五十五歳の短い生涯を終えた足利八代将軍義政は,政治家としては三代将軍義満のよ
うにきれる政治家ではありませんでした。しかし,足利歴代将軍に中において三代義満
に次ぐ芸術愛好者であったと云われています。義政は,政治に向ける情熱を芸術面に注
ぎ,芸術三昧の生活が中心になって,いわゆる東山文化なるものを形成しました。
 足利将軍家の唐物名器蒐集の伝統は,初代尊氏の天竜寺船に始まり,唐物の美術品を
室内に飾り,闘茶に熱中した二代将軍義詮,勘合貿易によって宋,元の名画を舶載させ
た三代義満を経て,八代義政の時代には名画名器が幕府の宝庫に数多く納められていた
と云います。それらのものは,義政以前に集められものも可成りありましたが,義政自
身が求めたものも数多くあったに違いありません。
 
 義政は,東山殿の宝庫に納められていた名画,名器の選定を,同朋衆であった能阿弥,
相阿弥に行わせ,その記録をさせましたが,この記録が『君台観左右帳記』です。義政
は能阿弥と協議して東山御物の選定にかかりました。まず,中国絵画から始め,上,中,
下の三等に区別したのです。そして,上の部のみを御物とし,中以下は唐,宋の名画と
雖も余程優れていないと御物編入を許しませんでした。器物も,盆,香合,燭,香炉,
花瓶,茶わん(土+完),葉茶壷,茶入,その他の雑器に亘って,御物の指定が次々と
行われたのです。このような経過を経て東山御物は確立されましたが,この東山御物を
大名物と云います。
 名物とは,桃山時代に千利休,津田宗及,山上宗二等が選定したもので,山上宗二が
著した『茶器名物集』に所載されているものを指すと伝承されています。
 中興名物は,小堀遠州が多くの茶器茶具を鑑賞し,優秀と認めたもののうち,特に卓
越した品を名物として選出しましたが,これらを中興名物と称しました。これらの中興
名物品は,遠州の所蔵品だけでなく,当時の諸大名が愛蔵していた茶器についても鑑賞
し,名物の称を与えたので,その数は実に多い。
 
 大名物にしろ,名物,中興名物にしてもこれらの全部は,書画や茶器茶具の類で,染
織品の選定は為されていません。茶人等が何よりも大切にした名物類は,その名物選定
に際して如何なる基準の下に為されたのでしょうか。名物設定は,権威者等の合議によ
って選定されたものではなく,個人の見識によって為される場合がその殆どでした。し
かも時代が異なり,選者も同一人ではありません。たとえ時代が異なっても,選者が別
人であっても,選定の基準が設定されていればともかく,そうではありませんでした。
従って,あくまで個人の主観により選定されたと云えましょう。その結果,芸術性の追
求によって名物に選定されたものもありますし,歴史性の追求を名物の選定条件に求め
たものもありました。
 とは云いましても,選者が作品の作風を無視しての選定ではありません。義政は能阿
弥と協議しての選定であり,何れの観点に立って選定するにしても,作品の優秀性がそ
の前提になったものと考えられます。
 『茶器名物集』の著者山上宗二は,その著述の中に,名物選定の基準とすべき意見を,
大燈国師の墨跡を例に,
 
 大燈方々ニ四十幅モ五十幅モ可有。其内語ニヨリ。様子紙之中善文字候者。可為名物
 也
 
と述べています。
 これは大燈国師の墨跡について述べたものですが,(墨跡作品が)沢山あっても全部
が良いものとは限りません。その中において語句の良いもので筆勢や書体の良いものは
名物にすべき価値資格がある,と云うことでしょう。実マコトに立派な名物選定基準を示す
ものであり,選定に際しての選者の執るべき態度です。
 それでは,全ての名物選定はこのような態度によって為されたかと云いますと,必ず
しも全部がそのような基準や態度で為されたのではないと思います。時代により,選者
によって選定基準,選定態度に差異がありました。
 それらは何れも書画や茶器の類なのです。
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