04b 道具の見所
 
△茶入
 茶入とは,濃茶を入れる器物で,陶磁器製のものであり,矢張り唐物カラモノと和物の二
種に大別されます。形もいろいろあって,その形によって名称も変わります。その代表
的なものは,肩衝カタツキ,文琳ブンリン,茄子ナス,丸壷マルツボ,尻張シリハリ,大海ダイカイ,内海ナイ
カイなどですが,唐物では中国製,和物では瀬戸,備前,高取などにおいて焼かれたもの
が多い。蓋は普通象牙で作られています。
 例えば肩衝の茶入の見方は,口作クチツクリ,口裏クチウラ,捻り返ヒネリカエシ,咽喉ノド,肩,胴,
胴紐ドウヒモ,釉際クスリギワ,置付オキツキ,畳付タタミツキの順に見ます。外見を見て,左手を胴に
掛けて蓋を取り,蓋は茶入の右横に置いて,茶入のみ手に執ってよく見てから下に置き,
蓋を閉じます。茶入には必ず袋(仕覆シフクとも云う)が付いており,いろいろな古い裂キレ
によって作られています。
 
 栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種を栂尾トガノオの明恵上人に贈りましたが,その茶の
種を入れて与えたと称する容器が高山寺の宝物として現存します。「漢柿蔕アヤノカキベタ」
と呼ばれる大海の茶入がそれです。その伝説はともあれ,濃茶器の茶入は大別して,漢
作唐物・唐物・和物・島物に分類されます。唐物茶入の殆どは,所持者の名を冠してい
ます。
 
 @漢作唐物茶入
 土型(陶範)によって形成され,首部(上部)と底部(下部)を合わせて胴継ぎした
ところに,継目を押さえた篦ヘラの痕が,胴紐ドウヒモとなって残っているものが多い。元来
は貿易品の容器として大量に生産されたものであり,その中から当時の茶人等が,特に
優れたものを茶入として採り上げたのです。宋末元初頃の古作の漢作唐物の釉薬は一種
類のものを内外に掛けたもので,「初花ハツハナ」「松屋」「遅桜」などのように景色のあ
るものは極めて珍しい。
 A唐物茶入
 唐物とは,明代永楽期以後のわが国からの注文品と云われています。漢作に比べて小
さく,優美な作行きのものが多い。ロクロ挽きで,胴継ぎはないが全体の均衡を考慮し
て胴紐を引いています。唐物類は景色よりも寧ろその姿の整ったものを高く評価して来
ました。
 B和物茶入
 和物茶入とは,古瀬戸・本窯・後窯・国焼など,わが国において焼造された茶入の総
称です。その景色の出来具合に重点が置かれ,その分類を「手分け」と称しています。
 その形や所在・発見の地名や所有者の名による手分けを始め,古歌による手分けが行
われています。
 C島物茶入
 島物茶入とは,南蛮貿易などにより,東南アジア,南中国,ルソン,琉球などからも
たらされた容器を茶入として採り上げたものを云います。
 
△薄器ウスキ(薄茶器)
 薄器とは,薄茶を入れる器物で,普通用いられるものは棗ナツメと云います。棗はその形
が,樹木の棗の実に似ているので,このように称されます。
 棗を濃茶器として用いることもあります。そのときは,袋の代わりに,棗を帛紗フクサで
包んだり,大津袋オオツフクロと云って,紫の小浜縮緬によって作った袋に入れて用います。
 材質は木地・漆器・象牙・竹・一閑張イッカンバリ・篭地カゴジ・金属・陶磁器・ガラスな
ど多様です。主オモ茶器に対して補助的役割の替えカエ茶器が用いられることもあります。
この場合,主茶器に棗類を,替茶器に陶磁器を組合わせて変化を持たせることが行われ
ています。
 形状は棗・中次ナカツギ・頭切ズンギリ・雪吹フブキの四種にほぼ大別されますが,薄器六器
(雪吹・面中次・頭切・薬器・白粉解オシロイトキ・茶桶),薄器七種(尻張棗・大棗・中棗・小棗・平
棗・つぼつぼ棗・碁笥ゴケ棗)と称することもあります。
 
△茶杓チャシャク
 茶杓は,象牙,竹,桑又は楓,桜,梅などで作られています。象牙,竹の節無しの茶
杓を真の茶杓,桑又は竹の節が切止めにあるものを行の茶杓,中節のある竹,桑以外の
木製のものを草の茶杓と云います。例えば草の茶杓の各部の名称は,先の方から露,擢
先,樋,節,手先,切止となっています。
 象牙の茶杓以外は,昔の茶人や武将等が自ら削り,それに銘を付けていますので,そ
れも鑑賞の対象となります。
 
 今日の茶杓の祖形は,象牙ゾウゲによって作られた豆杓と称する薬匙クスリサジで,先は芦
葉状,元は球状になり,その間を細い棒によって繋いだ姿のものです。また砂張サハリや象
牙の杓も用いられましたが,やがて東山時代に至り,竹を削って芦葉状の杓を作って用
いるようになりました。唐物茶入を唐物盆に載せて扱うところから,それに適した長さ
のものが選ばれました。義政や珠光により,象牙や竹の茶杓を好まれるようになり,薬
匙の援用としての使用は,道具として作られる茶杓に取って代わったと云えます。また
一方,侘び茶の盛行により,水指の畳の上の直置ジカオキや,茶入の盆を外した扱いが一般
化するにつれて,茶杓の長さや形も変化して行ってのです。
 茶会の道具の取合わせに際して,点前テマエに必要な茶碗や茶器と共に,最も重要な働き
をする茶杓は,それを作った茶人の個性が端的に表れ,点前をする人にその人間性が移
行するかのような錯覚すら起こさせるものです。つまり茶杓を削った茶人の心が,点前
をする人の心にぴったりと適ったとき,またその茶人の心を十分に理解出来たとき,初
めて茶杓は道具として立派に生きて来るのです。
 
 利休時代以前は茶人も茶杓師も対等に考えられ,作者名も公表されていましたが,利
休以後は影の存在となり,下削職となりました。千家においては茶杓の需要の激増から,
黒田正玄ショウゲンが代々下削職として活躍し,薮内家においては橋口宗栄が行っています。
古くは村田珠光には珠徳が,武野紹鴎には南都(奈良)窓栖ソウセイと羽淵ハネブチ宗印ソウイン(
彦五郎)が,千利休には南坊宗啓(慶主座)と甫竹ホチク重左衛門,古田織部に同じく甫
竹,小堀遠州には早見頓斎トンサイと村田一斎がその茶杓師として活躍しました。
 紹鴎は既に節のある竹茶杓を好んでいますが,未だ完全な中節ナカブシではありません。
中節は利休からと伝えられています。利休には中節の裏面をくって蟻腰アリゴシとし,節か
ら櫂先カイサキにかけて樋ヒを活かし,溝状にして茶を掬スクいやすくしたり,節を均衡の良い
位置に定めたりしました。利休以後茶杓は次第に個性的な特徴を持つようになり,櫂先
とその先端の露と称する部分にも各々の茶人の好みが示され,節の削り方や切止め部分
に顕著な個性が見られるようになりました。
 茶杓はかつて一会の茶会に用い,畳の上に置いたものは折り捨てたのでしょう。他人
に求められて贈る場合は,必ず摺漆スリウルシを施して手入れをし,筒に入れて呈上したもの
と考えられます。江戸時代に入りますと,摺漆に代わって鹿の角などによって磨きまし
た。
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