0204茶道の歴史
 
〈利休死後の茶道〉
 
 利休には,多くの門人がおりました。武将としては,金森長近,荒木道薫,蒲生氏郷,
細川忠興,瀬田掃部,芝山監物,高山右近,牧村兵部,織田有楽,古田織部などがおり,
武将以外には,山上宗二,南坊宗啓,住吉屋宗無,万代屋宗安,久田宗栄,神谷宗湛,
東陽坊長盛,円乗寺宗円などがおり,これらの門人の中から,後世流派を起てた人等も
あります。
 
△少庵
 利休には二人の子供がおりました。前妻との間に儲けた道安ドウアン,後妻の宗恩の連れ
子を養子とした少庵ショウアンです。利休の死後は,実子の道安が継ぐべきでしたが,道安は
それを辞して,九州の細川家に仕えました。養子の少庵は,利休の娘亀カメ女を娶って,
利休の跡を継ぎましたが,利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられますと,その屋敷や
家財は没収され,少庵は蒲生氏郷に預けられ,その領地会津へ流されましたが,徳川家
康などの執成しによって許され,京都に呼び戻されて,上京区本法寺前町に屋敷を与え
られました。
 利休の屋敷は,聚楽第の近く一条葭屋町にありましたが,新しく土地が与えられまし
たので,少庵は其処に,利休好みの茶室「残月の間」「不審庵フシンアン」などを再興しまし
た。
 
△宗旦
 少庵には,宗旦と云う子がおりましたが,幼い頃から大徳寺の春屋和尚の下に預けら
れ,禅の修業に励んでいましたが,十五六歳の頃,父少庵が西山の西芳寺に「湘南亭」
を建てて隠居したので,宗旦はその跡を継ぎました。
 宗旦を教育したのは,利休の後妻宗恩でした。宗恩は稀にみる教養の高い婦人でした。
この祖母によって,茶道全般の指導を受け,青年期を迎えましたが,千家の三代目とし
て,徳川家を始め,地方の大名から茶頭サトウ役として召し抱えの招きがありましたが,一
切それに応じませんでした。これは祖父利休が,秀吉から禄を与えられていたために,
賜死を甘んじて受けねばならなかったことを,幼い心にも強く感じていたからもありま
すが,その利休の茶道の精神は,庶民の間にあってこそ,初めて生かされるものであり,
黄金の茶室や大名の贅沢な生活の中からは,わびは生まれて来ないと信じたからでしょ
う。従って,定まった生活の資の無い宗旦は,千家の再興と云う重荷を背負いながら,
相当苦しい生活をしてようですが,それだけに,宗旦の茶の心は,益々わびに徹したの
です。しかも,幼い頃の修業によって築かれた禅の思想が,それに加わって「茶禅一味
」と云われるまでになったのでした。
 宗旦は,大名には仕えませんでしたが,町人,文化人,公卿などに門人や知己を多く
持っていました。特に後水尾天皇の皇后東福門院から特別のお引き立てを戴いていまし
た。後水尾天皇に直接お教えになったような記録は遺されていませんが,天皇が山崎水
無瀬宮にお造りになられた「燈芯トウシンの席」の茶室は,全くの草庵造りですが,こうし
たものを拝見しますと,天皇が宗旦のわび茶の感化をお受けになっておられたのではな
いかと想うのです。
 
△宗旦の弟子と後継者
 弟子には,丹後宮津の城主で致仕後剃髪して安智斎と称した京極広高,程朱学の権威
三宅亡羊,犬山城主石川宗雲の子で京都岡崎に隠棲した石川自安,呉服商の藤村庸軒,
久須美疎庵,伊勢神宮の御師杉木普斎,石庭で有名な竜安寺の住職僖首座,喜多流能楽
家の喜多七太夫,山田宗扁(彳偏+扁)など,多様な階級の門弟がおりました。
 宗旦は六十歳を過ぎた頃から,隠居を考えていました。宗旦には,宗拙,宗守,宗左,
宗室の四人の男子と,おくれと云う女子がありました。長男の宗拙は,若い頃から父の
許を離れ,諸国を転々と移り歩いていました。その理由はいろいろ伝えられますが茶道
に関して父との意見が合わなかったためでしょう。晩年は洛北の正伝寺に庵室を建てて,
其処のおいて没しました。次男の宗守は与左衛門と称して,塗師吉文字屋の養子となり
ましたが,後にその業を中村宗哲に譲って,千姓に戻りました。
 
△一畳台目の茶室
 宗旦は,「不審庵」「残月の間」など利休好みの茶室のほかに,後庭に四畳半の「又
隠ユウイン」,八畳の「寒雲亭カンウンテイ」などを新しく建てましたが,老齢に達した宗旦は,
更に狭い一畳台目ダイメの茶室を建てました。台目と云うのは,一畳の畳の長さの四分の
一を切り取って短くした寸法です。この切り取った寸法が,台子の幅と同じ故,このよ
うに名付けられたので,二畳敷よりも狭い広さです。宗旦は,四畳半の広さから,無駄
な畳を,一つ一つ除いて行きました。そして茶の点前に必要な台目畳と,客が座るに必
要な一畳だけにまで,切り詰めましたのが,この一畳台目の茶室となったのです。
 
△表千家,裏千家,武者小路千家
 この茶室が出来上がったのは,宗旦の七十一歳の年でした。宗旦はこの茶室披ヒラきに,
大徳寺の清巌和尚を招き,それを機会に「今日庵コンニチアン」と云う席名を付けました。そ
して,これまで起居していた不審庵を三男の宗左に譲り,自分は四男の宗室と共に今日
庵に隠居しました。後世宗左を不審庵又は表千家,宗室を今日庵又は裏千家と呼ぶよう
になったのは,宗左が表の方に住み,宗室はその裏に住んでいたからで,不審庵,今日
庵と称するのは,その各々の代表的な茶室の名を採ったのです。因みに次男の宗守は,
弟二人がそれぞれ一家を立てたので,自分も千姓に戻り,その住居が武者小路小川にあ
ったところから,町名を採って武者小路千家,又はその代表的な茶室「官休庵カンキュウアン」
の席名をそのまま,官休庵と称しました。宗旦は万治マンジ元年(1658)八十一歳で没し
ました。
 このようにして,利休の末裔は,孫の宗旦の代によって,三つに分かれたのです。
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