0203a茶道の歴史
 
〈千利休〉
 
 千利休センノリキュウは,武野紹鴎の弟子です。大永ダイエイ二年(1522)泉州堺において生ま
れました。遠祖は房州の里見源氏義俊の次男田中五郎で,祖父田中千阿弥は京都におい
て生まれ,足利義政の同朋を務めていました。父与兵衛のとき,堺に移住し,魚問屋と
なり,納屋衆になりました。堺は,今で云う自治都市でしたので,納屋衆が政治,経済
などを統轄していました。利休は,その与兵衛を父として生まれ,与四郎と称しました。
幼い頃から茶道を好んで,初めは能阿弥の流れを汲む,北向道陳キタムキドウチンに就いて,書
院の茶の湯を学びました。後に道陳の紹介によって,武野紹鴎に師事することになった
のですが,それを機会に,京都大徳寺の笑嶺和尚に参禅し,名を宗易ソウエキと改め,姓も
祖父千阿弥の千を採って,千と名乗りました。
 利休が紹鴎に師事していた期間は,紹鴎が弘治コウジ元年(1555)に五十三歳で亡くな
るまで約十五年間,その弟子として教えを受けていました。その間利休は,大徳寺の春
屋,古渓などに就いて参禅し,茶道精神の把握に努め,また各地を遊歴して,焼物の窯
元などを訪ねて,新しい茶器の創案を練ったりしました。
 
△秀吉と利休
 天正テンショウ六年(1578)五十八歳のときに,織田信長に召され,そのお伽衆に加わりま
したが,同十年信長が,本能寺の変によって急死しますと,改めて秀吉に仕え,三千石
を与えられました。
 秀吉が,当時既に大茶人として著名であったとは云え,堺の一町人の利休に,何故こ
のような高禄を与えて,側近に仕えさせたかと云いますと,戦国時代以来,落ち着かぬ
庶民の心を鎮め,荒れ進スサみ,優雅さを失った武将等の心を和らげ,武士と町人との融
和に,茶道を利用しようと考えたからで,利休も,秀吉のこうした意図によく協力した
のです。秀吉自身もまた茶道を楽しみました。僅かの時間においても,閑ヒマがあれば,
茶室において利休の点てる茶を喫み,心の憩いを計ったのです。
 そのため,山崎合戦,九州征伐,小田原陣など,秀吉の行く戦場には,利休も必ず従
って行ったのです。今,重要文化財に指定されている京都府山崎妙喜庵の二畳敷の茶室
「待庵タイアン」は,山崎合戦のとき,秀吉の憩いの場として,利休が建てたものですが,
このような狭い茶室は,利休の創案であり,部屋が狭ければ精神が散漫にならず,激し
い戦いの間においても,此処に座りますと,心も落ち着くからです。
 九州征伐の際には,博多の千代の松原において,度々茶会を催して,秀吉を始め,従
軍の武将等に茶を進めて慰労していますが,それよりも重要なことは,この野点ノダテの
茶会には,博多の豪商島井宗室や神谷宗湛なども招かれ,秀吉と共に茶を喫みながら,
戦後の博多の復興について,いろいろと協議をしたことでした。
 天正十三年十月七日,秀吉は宮中において初めて茶会を催しましたが,このとき利休
も別に茶席を受け持つことになり,特に利休居士の勅号を賜りました。利休と云う号は,
そのときから用いるようになりましたので,それまでは宗易の号を用いていました。
 
△北野神社の大茶会
 天正十五年(1587)十月一日,京都北野神社境内において大茶会が催されました。初
めは十日間催される予定でしたが,佐々成政の新領国肥後において,一揆が蜂起したの
で,一日限りで中止されました。
 この大茶会が催された目的は,いろいろと取り沙汰されたようですが,その年の八月
頃から,京都の要所に建てられた高札に拠りますと,全文は七カ条に分かれており,
 
 第一条 北野の森において十月一日から十日間大茶湯を催し、秀吉所蔵の茶道具を残
 らず並べて、茶道を好む者に見せる。
 第二条 茶の湯に熱心の者であれば、若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶
 水指一つ、呑み物一つでよい。茶のない者は、こがしでもよい。持ってきて釜を掛け
 よ。
 第三条 茶の湯をする座敷は、北野の松原であるから、畳二畳敷で事がすむ。ただし
 わび者は、筵敷ムシロジキでもよい。また、着座の順序は自由でよい。
 第四条 日本はいうに及ばず、いやしくも数寄の心がけのあるものは、唐国カラクニの者
 でも来るがよい。
 第五条 遠国の者にまで見物させたいから、十月一日からにしたのである。
 第六条 このように仰せ出されたのは、わび者を不愍フビンに思し召されてのことであ
 るから、このたび出て来ない者は、今後こがしを点てることも無用である。
 第七条 特にわび者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉自ら茶を点てて下さ
 れる。
 
と書かれています。
 この茶会には,秀吉の所蔵している数々の立派な茶器を公開し,秀吉自らが点前をし
て,誰彼ダレカレに拘わらず茶を与える。また,釜を架けたい者は,釜一つ,水指一つでも
良いから持って来て,好きな処で架けよ。もし抹茶のない者は,麦焦がし(麦を炒って
粉にしたもの)でも良い。そして,この茶会には身分の高下,人種の区別に拘わらず,
本当に侘びを好み,茶の湯を嗜タシナむ者は,誰が来ても良い。しかし,この茶会に来なか
った者は,如何程茶人振っても,その資格は無いものと認める。
 この大茶会は,秀吉が茶道を通じて,庶民と膝を交え,その声を直接聞こうとした企
てでした。そしてある程度,その目的を達したのです。
 その後,秀吉自身の地位は安定して,関白となります。聚楽第を建てますと,天皇が
それへ行幸されると云うような,位人臣を極むることになったのでしたが,その頃から,
秀吉と利休との間に,一つの溝が出来ました。
 
 利休の茶道は,老齢になるに従って,そのわびに深さを増して行きましたが,その反
対に秀吉は利休の説く侘びから離れて行ったのです。例えば,利休が桂川において魚を
捕る漁夫の魚篭ビクが面白いと云って,それを花入に用い,自ら竹を切って,竹の花入や
茶杓を作って,茶の湯に用いましたが,秀吉は,大阪城の山里曲輪クルワに,黄金造りの茶
室を建て,全ての茶器を黄金で作らせて得意になっていました。それが秀吉の茶道の本
心であって,利休のわびの茶道を用いていたのは,或いは庶民の人気取りのためであっ
たのかも知れません。そして北野神社の大茶会を契機に,自分の地位が安定しますと,
自分本来の姿に戻ったのでしょう。
 やがて秀吉は,事毎に侘びを説き,聖者のような態度を示す利休が,五月蝿くウルサクな
ってきました。秀吉には,最早利休は必要でなくなったのです。そんなときに事件が起
こりました。大徳寺に連歌師宗長が寄進した三門が,長らく未完成になっていたのを,
天正十七年利休は私財を投じて,楼閣を造り「金毛閣」と名付けました。大徳寺におい
ては,寄進者に報いるために,利休の僧体の木像を作り,それをその閣の上に安置しま
した。そのことが秀吉の耳に入りますと「貴人も下を通るかも知れぬ三門の楼上に,お
のれの木像を置くとは僭上センジョウである」と,木像を引き下ろし,それを船岡山に捨て
させました。こんなことから,二人の間の溝は益々深くなり,遂に天正十九年(1591)
二月二十五日,秀吉に謀反ありとして,利休に死を命じ,二十八日利休は「人生七十 
力囲希咄 我這宝剣 祖仏共殺」と辞世の句を遺して自刃し,七十歳の生涯を終わった
のでした。
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