0203茶道の歴史
 
〈茶道の成立〉
 
△村田珠光
 義政の頃,奈良に村田珠光ジュコウ(1422〜1502)と云う人物がいました。詳しい伝記は
分かりませんが,村田杢市検校の子で,幼名を茂吉と云いました。北市の称名寺の法林
院に入って僧となりましたが,若い頃から茶を好み,その頃奈良興福寺の衆徒の間にお
いて流行していた,奈良流と称する闘茶の遊びに耽り,寺の仕事を怠ったので,寺を追
われ,諸国を放浪した挙げ句,京都の大徳寺真珠庵に入って,一休禅師に就いて参禅し
ました。そして修行を重ねて,一休禅師から,宋時代の中国の高僧圓悟エンゴ禅師の墨跡
ボクセキを与えられたのです。珠光はその修業中,「仏法などと殊更らしく云っても、結局
日常茶飯の茶湯チャトウの所作に見出されるのである」と悟りました。つまり茶禅一味チャゼン
イチミの境地を見出したのです。ここで云う日常茶飯の茶湯と云うことは,禅宗で云う奠茶
奠湯テンチャテントウのことで,これが奠を除いて茶湯となり,更に「茶の湯」へと変わるので
す。
 奠茶奠湯と云うのは,毎朝仏前に茶と湯を供え,後一同が茶を飲みます。これは仏に
供えた茶と同じ茶を飲むことによって,仏と自分が一つになることを願うためです。こ
れを「一味同心イチミドウシン」と云います。そのほか,何か相談事でもあって,それが決め
られますと,一同で茶を飲みます。共に同じ茶を飲み合ったのですから,「今ここで決
められたことに違反しないようにしよう」と云う誓いにもなるのです。このように,た
だ茶を飲むだけでなく,茶を飲む動作に思想を盛り込もうとしたのです。
 
△わびの風体
 珠光の茶は,仏法のほかに,儒教をも加味していました。彼は茶儀の形式よりも,茶
を学び,行う者の心の問題に重きを置きました。「我執を戒め、我が心を師とすること
なく、我が心の師となれ」と教えました。そして初心者が巧者を妬んだり,巧者が初心
者を見下したりすることを戒めています。
 このように遜ヘリクダった茶人の心が,茶湯を催す場合に,様々な茶会の趣向や,茶の湯
湯の風体フウテイとなって,自然に表れることを求めたのです。「藁屋に名馬を繋ぎたるが
よし」などと云う名言を用いて,藁ワラ葺きの小座敷に,高価な唐物の道具を用いて茶を
点てるのを「さびたる趣向」と見なし,「冷え枯れる」とか「冷えやせる」などと云う
連歌の句の姿を譬えに用いて,わびの風体を説明し,その風体を正しく表現するのは,
外観の物ではなく,客に対する亭主の心尽くしであると云うのです。
 
△珠光の理想
 珠光は,このような信念と見識の下に,茶室や茶道具を改革しました。
 茶を点てる場に,台子飾を試みた能阿弥は,広い書院座敷を用いていました。珠光は,
広い書院においては,心の落ち着きが得られないと,座敷を四畳半に区切って,それを
屏風で囲いました。茶室のことを「かこい」と云うのは,このことから起こっています
が,四畳半は一丈四方であり,仏教において説く方丈ホウジョウを意味します。このように
屏風などによって四畳半に囲うものが,義政が東山に銀閣と共に,居間,持仏堂を兼ね
た東求堂を建てますと,その一部に「同仁斎ドウジンサイ」と称する四畳半の独立した部屋
を設けました。これは能阿弥の推挙によって義政に仕えるようになった,珠光の進言に
よると伝えられます。
 珠光は後に六条堀川辺に草庵を結び,文亀ブンキ二年(1502)八十一歳で没したのです
が,その間,台子の茶湯を,一層簡単なものに改めたいと思いました。いわゆる書院式
の茶湯から,佗び草庵の茶湯に改めたかったが,義政に仕えていた関係上,彼は生前中
には,それが実現出来ませんでした。しかし彼のその理想は,真漆の台子を,木地の竹
柱のものに改めたり,象牙の茶杓を,弟子である珠徳と相談して,竹で作ったり,唐銅
の花入に代えて,竹の花入を作ったり,着々と侘び草庵の茶湯への準備を進めていたの
です。
 しかし,こうした珠光の理想も,彼の他界や,打ち続く戦乱などによって,一頓挫し
てしまいました。そして平和を愛し,風流を楽しむ人等は,京都の地を離れて,住みや
すい平和な土地へ移って行きました。其処は貿易港であり,自治制の町であった泉州の
堺でした。
 
△武野紹鴎
 武野紹鴎タケノジョウオウもまた京都を去って,堺へ移住した茶人の一人でした。
 彼は文亀二年(1502)に,若狭国の守護武田氏の後裔として生まれました。祖父の仲
清は応仁の乱に戦没し,父信久は諸国を流浪して,泉州堺に住み着き,姓を武野と改め
て,三好氏の後援の下に,武具調整に必要な皮革業を営み,一代で産を成しました。紹
鴎は幼名を吉野松菊丸と云い,成人して新五郎仲村と名乗りました。若い頃から歌道に
志し,上洛して三条西実隆に師事して歌道の奥義を究め,朝廷に献金して,従五位下因
幡守に任ぜられました。歌道を研究する傍ら,藤田宗理,十四屋宗悟,宗陳など村田珠
光の流れを継ぐ茶人について,茶の湯を学びましたが,実隆から歌道の極意とも云うべ
き藤原定家の『詠歌大概之序』の講義を聞いて,茶道の極意を悟り,享禄キョウロク五年(
1532)三十一歳のとき,堺に帰ると剃髪して紹鴎と号し,茶の湯に専念しました。四十
八歳のとき,堺南宗寺の大林ダイリン和尚から一閑イッカン居士の号を授けられ,晩年は京都市
室町通四条上ル夷堂エビスドウの隣に茶室を建て,「大黒庵」と称しました。この「大黒庵
」の跡は今,金剛流の能楽堂になっていますが,その能舞台の脇に,紹鴎が茶の湯の水
に用いた「菊水」という井戸が残っています。紹鴎はこの大黒庵において度々茶会を催
して,松永久秀や,京・堺などの茶人を招いています。
 
△わび草庵の茶の湯
 紹鴎は珠光が理想とした,わび草庵の茶の湯を完成させた茶人と云うことが出来まし
ょう。
 わびは,侘ぶワブと云う動詞の名詞化で,思い煩うこと,閑居の情趣を楽しむことで,
文学上の言葉として古くから用いられ,『万葉集』や『古今集』などの和歌の句によく
観られますが,歌道の成立と共に,歌道の上の理念となり,更に紹鴎により茶道の極地
を表す言葉となりました。紹鴎は「侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、
ちかくは、正真に慎み深く、おごらぬさまを侘と云う。一年のうちにも、十月こそ侘な
れ」と説き,藤原定家の,
 
 「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」
 
の歌の心が,茶道の侘と通じる,と云っています。
 即ち茶道の侘びとは,足らざることに満足し,慎み深く行動することであると説いて
いるのです。そのために,紹鴎は貴族趣味の書院の茶の湯を避け,百姓家を模した藁屋
根の四畳半に,囲炉裡イロリを切って茶堂とし,唐物カラモノの茶器類の代わりに,信楽シガラキ
や瀬戸セト,備前ビゼンなどにおいて焼いていた種壷,塩壷や,日用品として焼かれた雑器
類の中から,水指ミズサシや茶入,茶碗などを選んで,茶の湯の道具として使用したので
す。
 斯くて茶の湯は,それを行う場所や使用する道具よりも,まず心の持ち方に重要性が
持たれるようになり,単なる貴族趣味の遊びであり,社交的儀礼の一つであった茶の湯
が,わびと云う精神を持った道に成長し,茶道と称せられるようになりました。
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