GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは
「鏡を覗く」考

 
 わが日本には、「産土うぶすな」と云う「生き方」がある。産土とは、いわゆるその人の出自と云うことも出来る。そして、産土様と云う神に崇めて、人の出自の守護神とする考えである。産土神には、氏神や鎮守神をも包括されているとされる。
 
 神道辞典(堀書店発行)に拠れば、「産土とは、祖先もしくは自己の出身地又は永住地を価値的な出自意識をもって表現する言葉であり、従ってその土地の守護神を自己の出自に伴う運命をも司るものと信じて、これを産土神と称する。」とある。即ち、産土神は、その地域やその住民を普く守護する神と云うことが出来る。
 
 先祖が崇拝し、現在まで受け継ぎ保たれてきた産土神は、われわれが「その土地」に居住している限りは、われわれにも、またその子孫に対しても普く守護するのである。
 もし、その土地に、産土神を信じない人がいても、産土神は差別することなく恩恵を与える任務を帯び、そして分け隔てなく、公平に守護しているのである。
 と云うことは、産土神は、人間の思考信条を超越して存在しているのである。
 
 「その土地(又は国)」は、人の出自によって異なる。例えば、甲地と乙地とにはそれぞれの産土神が鎮座している訳であるが、どちらの産土神も相争うことはせず、等しく神徳を現しいるのである。
 従って、日本の神々は、神徳に現し方には、例えば「学業成就」とか「交通安全」とかには違いはあるが、神々間の上下関係を意識したり、優劣を誇示することはせず、それぞれの土地において、それぞれの「生き方」を以て存在しているのである。
 ただし、わが日本の統合を象徴する神としては、天照大御神あまてらすおおみかみを戴いている。天照大御神は、実は太陽神たる女神であるとされる。
 
 全く新しい土地、又は荒涼とした土地に、果たして産土神は存するのか、との疑問は残る。
 
 現実のわれわれ人間の周囲には、森羅万象、あらゆる物(=万物)が、その存在を主張している。つまり、それぞれが、それぞれの「生き方」で存在しているのである。
 人間が存在すると云うことは、万物も必ずそこに存在すると云うことである。そこにもし人間が存在する必要がなければ、万物も存在する必要がないのである。
 従って、わが日本では古来、この万物に対して畏敬の念を抱いて接してきている。例えば、人間同士でも、相手に話しかけるときは、相手の感情を損ねない、自尊心を傷付けないことを前提して、ご機嫌を伺い、対話し、付き合ってきている。
 自己以外の総て、即ち万物のそれぞれは、自己と等しい感情を持ち、自己と等しい自尊心、或いはそれ以上の気高い「生き方」を持って存在しているのだ、と云うことを歴史的に遺伝的にわれわれ日本人は、抱いているからである。
 
 そのことが即ち、万物には神々が存しているのだ、と云うことを無意識のうちにわれわれは感じ取っているのである。
 
 では、全く新しい土地、又は荒涼とした土地はどうなのだろうか。
 われわれは、「全く新しい土地、又は荒涼とした土地」の存在を認識した瞬間に、われわれは、それを「万物」の一員として認識するのである。当然に、そこには産土神の存在を認め合うこととなる。
 
 この「相手(=万物)の、個々の存在を認識すると云う生き方」こそ、自分は、究極の「個人主義」であり、「生き方」の一つである、と想われてしかたがない。
 
H16.01.19
 
 なお、「相手(=万物)の、個々の存在を認識すると云う生き方」の一つの具体例として、「戴きます」「御馳走さま」があります。
 
[詳細探訪]
  次へ進む   バック