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「鏡を覗く」考

 
[究極の個人主義とは]
 
 わが日本の神道は、歴史的に、為政者たる天皇が信奉する故に、全体主義的傾向が強いと云うように言われることがある。
 つまり、政治を操る政府の高官たちは、「上意下達」を以て、国民を制しようとする傾向にあったことは、否めない。
 
 しかし、現在は、個人の一票の重みの名の下、つまり民主主義が全体を支配していると云う、「民主主義の名」による全体主義的国家体制の中で、政治が行われているように感じられる。
 
 ところで、いわゆる「聖書」を旨とする宗教(=宗教圏)においては、「個人」を立脚点とすることによって、その教えが成立する。つまり、人(=個人)は、神(=神の教え)を信ずることによって、神に救われると云う、「神対個人」の関係で、世界中へ浸透してきた。即ち土地(=国)の境界を越えるが故に、世界宗教と云われる所以である。
 仏教の教えもまた、おなじく「仏対個人」の関係にあるため、世界宗教と云われる。
 
 これらの世界宗教においては、神又は仏(以下本稿では「神仏」と記す)を「信ずる者は救われるが、信じない者は救われない」とする。これは、宗教の基本的基盤が、この考え(思想)でなければ成立しないからである。つまり、「信ずるものは救われる」と云う前提の下に、世界宗教が成り立っているのである。
 
 そうすると、例えば、ある「土地の人(以下「甲」と記す)」が、Aと云う世界宗教を信じて、Bと云う世界宗教を信じないとすれば、甲はAの神仏には救われるが、Bの神仏からは見捨てられることとなる。
 更に考えると、甲はA側にとっては味方であり、B側にとっては敵となる、つまり、AとBとには、敵対関係が生ずることとなる。AB双方が、それぞれの自己主張をするとすれば、当然に勝敗を決しなければならない。
 
 この争いを、武力(=風)でするか、信者の多数(=民主主義)でするか、又はその教えるところの「生き方」(=太陽)でするかは、これからの歴史が明らかにすることとなる。
 
 例えば、数学の公式に、「1+1=2」がある。これは、数学の世界においては、真理である。つまり、この公式は、数学の世界における価値観と云うか世界観と云うか、また哲学と云うか(以下本稿では「生き方」と云う)、「絶対の真理」である。この公式「1+1=2」と云う絶対の真理を破ることのできる、他の「公式」は成り立たないのである。
 
 この「絶対の真理」の考えを、生臭い生き物である「人間」の世界に適用しようと試みてきたのが、世界宗教である。Aの考えも、Bの考えも、人間の「生き方」の「絶対の真理」を指向して構築されたものであることは疑いない。
 しかし、生身の人間の考え出す「真理」には、絶対的なものはない。何故なら、人間は、その出自、その個性、その思考の中身は千差万別であるからである。
 A・B間においては、相争うことなく、それぞれがよりよい「生き方」を更新しつつ、共存共栄の道を選択すべきことと想うのである。
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