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「鏡を覗く」考

 
[太陽は何を差別したのか]
 
 わが日本において、最も崇高視されている神は、太陽神たる女神の天照大御神である。
 日本人は、太陽の恵みをこよなく享受し、それに応え、感謝する意味で、日夜怠らずに勤しみ励んでいるのである。その過程で育まれててきたのが、古来からの神道である。
 
 太陽は、総てのものを、何時でも、等しく恵んでいるとは言えない。
 例えば太陽は、地の果てたる南極や北極辺りでは生物の生存を厳しく制限しているし、また夜間や物の陰では生物の生長が抑制されるし、炎天下では植物の生死を左右する。
 
 太陽は、好んでこのような仕打ちをしている訳ではない。人々の生きる環境としての、地球上に心地よさを与えてくれるものとして認識していた筈の太陽が、ある特定のもの、またある時、たまたまそこに、その時に生きていた人々の期待を裏切った、即ち人々に仕打ちをし、差別をしたと、人々が思ってしまうからである。
 
 この地球上において、人間を始めとする万物の存在を掌握しているのは、太陽をおいて他にはない。
 全ての人間は、陰に陽に、大いなる太陽の恵みを享受していると想われるのであるが……
 
 しかし、大いなる太陽の恵みを得て、この世の繁栄を謳歌していた筈の人々が、次第に太陽の仕打ちを意識し始めたら、どうであろうか。
 あまりにも過酷な日照り − 砂漠が訪れてきたのである。今までの価値観や世界観がこの地上から失われたのである。大らかな太陽を軸とする「生き方」が、絶対的に不可能になったのである。
 
[詳細探訪]森林の思考・砂漠の思考〈一神教の成立〉
 
 文明が進めば進むほど、思考も深く鋭くなるであろう。
 そこで、考え出されたのが、太陽を超越することである。過酷な現実をもたらす太陽よりも、それを超越する「神」の存在を創出することである。
 その神を自らが独占することによって、自ら及び一族の生存を勝ち取ることである。
 
 しかし、現実は厳しい。その神は、死をも賭して獲得したなければならなかった。つまり「唯一絶対神」として、人々は認識し現実のものとしなければならなかった。即ち人々は、絶対に、そして永久に、神の下僕となることとなったのである。
 そして、この考えは、やがてまた、太陽をも征服し得る価値観をも見出して、世界を席巻しようとしている。何故なら、神は、太陽をも掌握しているからである。
 その意味において、この思想の本音、つまり「聖書の民(=世界)」は、過酷な環境の中で生まれ育まれてきたので、他の異なる価値観、世界観、哲学を持つ民と妥協し共存共栄することにおいて、なかなか厳しいものがあろう。
 
 一方、大らかで、かつ激しく豊かな太陽の下で生まれた「仏の世界」の思想は、生きるために働く必要はなく、ひたすら思考に没頭する中から生まれたのであった。考えるために生き、また生き続けることは考え続けることでもあった。
 
 そこで、われわれががまず最初に頭に浮かぶのは、「生きていることは煩悩である」とする考えである。人は何故に生きるのか。
 「生きていることの煩悩」とは、また、「死に対する煩悩」でもある。
 即ち、仏の教えとは、万物が潤沢に「生」に浸っていることの悩み − 煩悩からの逃避行とも云えなくもない。
 
 従って、「生」を最大の目標とする、聖書の民の「生き方」と、「生」の煩悩からの逃避行である、仏の世界の「生き方」とは、全く次元を異にするである。
 
 その次元の異なる「生き方」、即ち価値観〜世界観〜哲学を有機的に融和するのが、わが日本の古来からの思想である、「神道」に他ならないと想えてしかたがない。
H16.01.19
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