11b 楽舞考[楽器総載・和琴・琴・箏・筑紫箏]
[箏]
箏も亦糸に属す。西土伝来の楽器なり。
秦の蒙恬が造る所と云ふ。故に秦箏の名あり。邦語にシャウノコト、またサウノコトと
曰ひ、また単にサウとも称す。皆箏の字音なり。
其の器、桐を以て之を製し、上崇く、下平に、中空し、古制、長さ五尺五寸。
嵯峨天皇、更めて六尺五寸と為し、後また一寸を減ず。また六尺二寸七分に作る者あり
と云ふ。首濶さ八寸二分五厘、尾広さ七寸八分強、絃本と十二条、後ち一絃を加ふ。
其の名を一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾と曰ふ。
柱高さ三寸、之を上下して其の調を成りし、繋爪を以て之を弾ず。
器の面を槽(甲とも)と曰ひ、背を龍背リウハイと曰ひ、腋を磯イソと曰ひ、其の余龍額、玉
戸、龍帯、通絃孔、鵐目シトトメ、龍瞼、龍角、龍舌、龍唇、龍鼻、龍頬、龍桑(桑偏+頁
)、龍手、三嶽、金戸、龍尾、龍趾、渚ナギザ、龍句(口偏+句)、木度キド等の名あり。
此器未だ其の渡来の年代を詳にせざれども、天平勝宝八歳に録する所の東大寺献物帳に、
已に其の名を挙げたれば、是より先に之を伝へしや明けし。
承和中、遣唐判官藤原貞敏此を唐人劉二郎に受けて、新声数曲を本朝に伝へしことあり。
爾後、朝廷及び王臣の家、饗宴ある毎に、之を笙、篳篥、横笛、及び琵琶に合奏し、或
は大鼓、鞨鼓、鉦鼓を加へ、称して管絃と曰へり。
其の名器に、秋風、大小螺鈿、師子、鬼丸、岩越、松風等あり。皆希世の宝たりと云ふ。
調絃の法、先づ第二絃を以て宮音と定め、次に二絃より五絃の徴音を起し、次に二より
四の角音を起し、次に五より三の商音を起し、次に三より六の羽音を起す。五音是に於
て備はる。次に二絃を七絃に合せ、三八、四九、五十、六斗、七為、八巾と各々二絃同
音の清濁に調し、さて五と一とを同音同位に調す、これ平調律旋の調法たり。
其の余各調に小異あり。
此器筑紫箏に比するに、製作大差なきが如しと雖も、其の絃太く音剛くして、声調の正
雅高遠なる。固より彼の比にあらずと云ふ。
名器「あしたづ」
雲井より年へてなれし蘆たづの かへる別にねをぞそへつる
(玉葉和歌集 十六雑 後伏見院御製)
[筑紫箏]
筑紫箏は、雅楽の箏の一変せしものにして、其の製作は桐の古木を用ゐて、長さ六尺五
寸を本間と云ふ。また六尺のものもあり、半箏と云ひて短きものもあり。
京都の石村近江の製を最上とす。
此器は初め後奈良天皇の大永の頃、筑紫なる善導寺の僧に、箏術を能くせしものありて、
之を肥前の人賢順に伝へ、賢順之を同郷なる慶岩寺の僧玄恕及び僧法水に伝ふ。
盲者八橋検校城秀は三線の名手なりしが、更に法水及び玄恕に随ひて此術を学び、奥義
を究めたり。
而るに其の曲調稍々高雅にして、俗耳に疎きを覚り、更に新曲数種を作り、三絃の組に
傚ひて組歌を編成し、終に都鄙に流行するに至れり。
筑紫箏の曲は、初め八橋検校十三曲を製し、後更に新曲二組を補へりと云ふ。然れども
是れ悉く八橋の創製にあらず。古く筑紫楽にありしもの、又は三絃の歌などをも取りて、
組と定めしものなり。
後世次第に増て三十六曲となり。之を表組、裏組、中組、奥組の四等に分てり。
組とは同じ趣の小歌数曲を合せて弾法の原則を定め、表より裏に進み、中より奥に昇り、
次第に疎より密に入る方法にして、即ち其の技を習ふ学級なり。
此組の中に段物と唱へて、唱歌なくして指法のみの曲あり。之を段調子と称す。
此外雲井と名づくるは、尤も高声の調子にして、平調子ヒラチウシと呼ぶは普通の調子なり。
総じて弾は、八拍子、八口、合計六十四の拍子を合せて、一歌と定めしものなりとぞ。
此技の名手には生田検校、山田検校等ありて、各々一流の祖と仰がる。
生田流は汎く関西に行はれ、山田流は専ら関東に行はる。
此他新生田流、継山流等あれども、多くは大同小異なるものなり。
一絃琴はまた独絃琴とも称す。初め印度人の伝ふる所なり。
徳川幕府の時、河内の僧覚峯律師其の弾法を発明し、之を須磨琴と云ふ。
此器たるや、杉又は桐の板上に軫を立て、一条の糸を張り、爪を以て之を弾奏す。
一絃琴の類に二絃琴あり。之を八雲琴と云ふ。絃二条を用ゐて之を掻鳴すものなり。
みちのくのあだちのま弓きみにこそ おもひためたることはかたらめ(三養雑記 四)
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