10 楽舞考[講談・落語]
 
[講談]
講談とは、軍書及び諸家の騒動顛末等を口演するを云ふなり。
講談をなす者を講釈師と云ふ。
初め多くは太平記を口演せしを以て太平記読と称せり。
柳営及び諸侯の邸に出入して講ずるあり。
市中に場を構ふるあり。
市中に立ち、或は人家に就きて、銭を乞ひしものありて一ならず。
講談は、赤松清左衛門を以て始とすと云ふ。
 
寄席は、講談、落語等を演ずる所にして、始は市人の群集する地に、葭箕張の小屋を構
へ、腰掛台を置きて客の席とせしが、寛政の頃より、寄席と称する演技場を構ふる者、
漸く多くなれり。
天保十三年、令して神道講釈、心学、軍書講談、昔し咄ハナシを四業と称し、其の他を講ず
るを禁じ、また江戸市中に於て、寄席十五所を限とせしが、弘化元年此令を廃してより、
其の数復た増加するに至れり。
 
[落語ラクゴ]
落語は、オトシバナシ、と云ひまたオドケバナシ、軽口とも云へり。
諧謔カイギャクの事を陳べて、人をして笑はしむるを以て主とす。
元和ゲンナの頃、安楽庵策伝と云ふ者あり、落語に長じ、醒睡笑の著あり。
公衆に口話せし者に、天和テンナの頃、露五郎兵衛あり。
元禄の頃、鹿野武左衛門あり、辻咄し、又は座敷咄しと称せり。
元禄宝永の頃、彦八あり、軽口咄に巧なり。
宝永の頃より以後は、落語は殆ど廃絶に帰せしが、天明年中、烏亭焉馬、再興を企て、
会席を開き、自ら之を演じたるより、世に行はれたり。

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