09 楽舞考[芝居・浄瑠璃・操人形・小唄・舞・踊]
[芝居シバイ]
芝居は、演劇を称す。
芝生の地に、観客の坐するより出でし名なり。
また歌舞妓カブキと称す。其の所作より云へるなり。
此伎は国と云へる婦女の始めたるを以て、於国オクニ歌舞妓の称あり。
慶長元和の頃、此伎を学ぶ者漸く多く、大に世に行はれたり。
当時は専ら女を主として演じ、僅かに男子を雑ふるに過ぎざりしが、後男芝居と称して、
男子のみにて演じたる者もありき。
而して寛永六年に至り、男女混交の芝居を厳禁せしかば、翌年より男子のみにて演ず。
之を若衆歌舞妓と称す。
承応元年また之を禁じ、若衆を罷ヤめて野郎とす。
若衆とは少年にして額髪あるものを謂ひ、野郎とは額髪を剃去したる者を謂ふなり。
翌年公許を得て再興せしに由り、此れより野郎歌舞妓となれり。
劇場は初め舞台を設け、観覧する者は土間に坐してが、漸次歌舞妓の発達と共に構造を
改め、屋上に櫓を設け、木戸を造り、観覧の為に桟敷土間等を設け、また舞台に往来す
る為に花道を造り、舞台の後に楽屋を設けたり。
演劇の状況は、女歌舞妓の時、始め笛鼓に合せて踊舞せしが、次て女は男装を為し、男
は女服を著し、別に諧謔の態をなす男ありき。
若衆歌舞伎は男子のみにて演じ、男女に扮装せり。
而して一番づゝの放ハナレ狂言なりしが、寛文年中に至り、始て続ツヅキ狂言を為せり。
狂言は初め俳優等之を作り、後には作者ありて構成し、更に意嚮イカウに依りて修正せり。
狂言には初め笛鼓等の楽器を用ゐ、小歌等と唱和せしが、俗曲の発達に従ひ、歌舞妓を
して長足の進歩を為せり。
また野郎歌舞妓となりてより、男女の鬘カツラを製して之を用ゐる。
衣装は漸次奢侈シャシに傾きたるを以て、官屡々令を発して之を禁じたり。
女形(狂歌)
女かと見れば男の万之助 ふたなり平の是も面影(役者全書 下)
[浄瑠璃ジャウルリ]
浄瑠璃は、三味線に和して歌ふものにして、伝説に拠れば、織田信長の侍女小野於通が
牛若浄瑠璃姫の故事を陳べて、十二段の草子を作り、之に曲節を施し、三味線に和して
歌ひしに由り、浄瑠璃と名づけたりと云へども、其の以前に既に浄瑠璃を歌ふこと書冊
に見えれば、其の起原此に在るにあらず。
浄瑠璃には、浄雲節、肥前節、外記節、土佐節、金平節、永閑節、語斎節、嘉太夫節、
半太夫節、文弥節、井上節、義太夫節、河東節、一中節、豊後節、常盤津節、富本節、
清元節等の流派あり。
多くは流祖の姓名、受領名を以て流名とせり。
浄雲節は薩摩浄雲より出づ、是を江戸浄瑠璃の祖とす。
金平節は浄雲の弟子和泉太夫が、坂田金平の浄瑠璃より出づ。
義太夫節は井上節の祖井上播磨少掾の弟子五郎兵衛より出づ。
師の没後同門の清水理兵衛に学び、且つ嘉太夫節の祖宇治嘉太夫に従ひ、終に一派を
成し、名を竹本義太夫と云ふ。
門下に竹本采女ウネメあり、後豊竹若太夫と云う。竹本豊竹の二氏、義太夫節を伝ふ。
浄瑠璃の作者は、初め好事者の戯作に過ぎざりしが、近松門左衛門が竹本義太夫の為に、
浄瑠璃を作りしより、之を業とする者起り、紀海音、西沢一鳳、竹田出雲、松田文耕堂、
近松半二、並木宗輔等並に名あり。
浄瑠璃の中、河東節、一中節、豊後節、常盤津節、富本節、清元節等の外は、大概浄瑠
璃座を設け、操人形と相伴ひて演じたりしが、後には浄瑠璃のみ単独に行ふものあり。
こよひ月まめに見よとやことたらぬ いもこひしらの一盃としれ(還魂紙料 上)
落書
豊後米八斗二升と触られて 菰をかむるか宮小路(江戸節根元記 下)
辰巳の四季
春霞たな引にけり久かたの 月のかつらのはなやさく(都羽二重拍子扇 一)
[操アヤツリ人形]
操人形は、単に操とも云ふ。
芝居の一種にして、浄瑠璃に和して人形を操るを謂ふなり。
後には浄瑠璃は単独に行はれたりしが、初は浄瑠璃と操とは相離るゝこと能はず。
浄瑠璃を興行する者は必ず操を為すを以て例とせり。
[小唄]
小唄は、端唄とも云ふ。
多くは二十六字、若しくは二十三字を以て綴りたる俗謡にして、徳川幕府の時、三味線
の発達と与に長足の進歩を為し、其の曲節によりて、隆達節、弄斎節、柴垣節、投節、
滑り節、加賀節、小室節、潮来節、大津絵節等の名目あり。
而して始めの曲調及び章句等優雅なりしが、後には漸く淫靡インビに流れたり。
長唄も亦俗謡にして、其の歌章小唄より長く綴りたるを以て名づくと云ひ、或は節を長
く引きて謡ふ故に云ふとも云へり。
長唄の一種に江戸長唄と称するものあり。
枡屋勘五郎の創むる所にして、多くは之を劇場に於て演奏せり。
小唄歌章
さすやうでさんさんさゝぬ月の影 あきこがけつゝにくのあまよや
(卜養狂歌集 上秋)
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