08 楽舞考[琵琶法師・幸若音曲・能]
[琵琶法師]
琵琶法師は、琵琶を弾ずる盲僧の称にして、伝へて以て宇多天皇の皇子敦実親王の雑色
蝉丸に創まると為せども詳ならず。
一条天皇の比コロに及ては、琵琶法師の名漸く史籍に散見したれども、当時は未だ雅楽の
範囲を出でずして、別に一種の指法ありしにはあらず。
其の平家物語を演じて之を琵琶に合するは、鎌倉幕府の比に起る。
而して此物語の作者は或は信濃前司行長とし、或は葉室時長とし、或は菅原為長として、
其の説一ならざれども、始て之を琵琶に合せて語りしものは、盲僧生仏(一に性仏とも
)なりとす。
是より後、盲僧常に之を伝へて城方ヤサカタ都方イチカタの二流を生じ、更に大山、妙文、志道、
戸島、玄正等の六派に分るゝに至れり。
平家を語るに引句、語句あり。
引句とは琵琶の調子に合せて唱ふを云ひ、語句とは琵琶を膝の前に置き、徒に唱ふを云
ふ。
要するに其の手法甚だ疎なるを以て、徳川幕府の時、箏サウ三味線等の盛に行はるゝに従
い、之を好むもの漸く稀にして、終には殆ど絶えなんとするに至る。
是に於て薩摩琵琶起る。薩摩琵琶も亦初は盲僧の専業として、平家のみを語りしが、後
には遠近五倫等の数曲を製し、漸く繁手と為し、人意に適しければ、薩隅の地には大に
流行して、少年の輩は弓馬を習ふの余暇に此器を弄モテアソべり。
五月雨に沢辺の真薦水越て 何れ菖蒲と引ぞ煩らふ(太平記 二十一)
ね覚してあな面白といふ声に 月さゆるよを空にしる哉(七十一番歌合 中)
[幸若カウワカ音曲]
幸若音曲は、桃井幸若丸の創むる所にして、子孫世々越前に住す。
徳川幕府の時、其の俸禄を受けて、毎年輪番に江戸に来り、柳営に於て、之を演奏せり。
其の技只扇拍子を取りて昔物語類を謡ふのみ、因て之を音曲と称す。
而して別に舞曲を行ふ者あり。之を大頭と称して、以て幸若音曲に分てり。
[能]
能楽は、旧く散楽若しくは猿楽と云ふ。因てまた申楽とも書せり。
初めは諧謔カイギャクを以て主と為しゝが、足利氏の時一変して、諧謔の事は狂言師の行ふ
所に属し、田楽の能より一転したる一場の戯曲を称して猿楽と為す。即ち能楽なり。
伝説には、聖徳太子、秦河勝をして猿楽を作らしむと云ふ。
足利氏の頃、大和に外山、結崎、坂戸、円満井の四座あり、春日社の神事に従ひ、近江
に山階、下坂、比叡の三座あり、日吉社の神事に従ひ、河内に新座あり、丹波に本座あ
り、摂津に法成寺あり、此三座は賀茂住吉両社の神事に従ひ、伊勢に和屋、勝田、主門
の三座あり、大神宮の神事に従へり。
応永の頃、結崎次郎技を善くせしかば、将軍義満召して同朋となし、観阿弥と称す。
其の子元清亦同朋と為り、世阿弥と称す。
父子共に従来の猿楽の面目を改め、新曲に曲節を施し、舞容を定め、笛、大鼓、小鼓、
太鼓を以て楽器と為す。
世阿弥の子音阿弥また名あり。
此技足利幕府にては深く之を重じ、遂に武門の式楽と為す。
また毎年歳首に謡初の式を挙げしが、徳川幕府の時にも恒例の式と為せり。
当時観世、金春、保生、金剛の四座ありしが、徳川幕府の時、金剛より分れて喜多を出
す。是を御能役者と称して世禄を賜はれり。
此技足利氏の時盛に行はれしが、豊臣秀吉大に此技を好み、自ら舞曲を奏するに至れり。
故を以て、武臣の此技を修むる者漸く多し。
徳川幕府の時、年始又は慶事等ある時は、能楽を営中に行ひ、諸侯及び士分をして陪観
せしむ。
また御能拝見と称し、江戸の町人に観覧を許しゝことあり。
狂言は滑稽諧謔を主とす。
一場の戯曲を演するものにして、大蔵、鷺、和泉等の諸流あり。
而して能楽の中間に於て、其の能の来由等を陳ぶるを間アヒと云ふ。
八島の能に義経の事、兼平の能に兼平の事、阿漕の能に漁父の事を陳ぶるの類なり。
猿楽
秋の霜翁おもての白髭の ながきよあかず月をみるかな
恋られてむくいやするとゑめい冠者 うつくしげなる人とみえばや
(七十一番歌合 下)
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