123 「交響曲『没落』」
 
○磯城島シキシマの 大和の国に 明らけき
 名に負ふ伴の緒 心つとめよ
                         大伴家持・巻二十 − 四四六六
 
○剣大刀ツルギタチ いよよ研ぐべし 古イニシヘゆ
 清サヤけく負ひて 来にしその名そ
                            同・巻二十 − 四四六七
 
 この日、天平勝宝八年(756)六月十七日、家持は一気に六首の諭族歌(一族を諭し励
ます歌)を作りました。それは恰も彼自身、いや彼が生きた時代の動揺を描いた大交響
曲のように響き渡ります。家持と云う詩心を通じて、移り行く時の流れが奏でた哀れで
悲壮な交響楽なのです。
 第一楽章 − それは勇壮な長歌で始まり、続いて見出の歌となります。わが大伴氏は
素晴らしい一族です。何代にも亘って仕えて来た忠臣にと、天皇が賜った家名です。そ
の汚れない家名を決して疎かにしてはなりません。ですから「わが大和の国に輝かしい
家名を持つ諸君よ。心を励まして一層努力しようではないか」、「いよいよ剣大刀を研
ぐべきとき。昔から汚れなく、清かに受け継いできたその名のために」と。
 家持の中にこのとき息衝いていたのは、名門の伝統であり、祖父安麻呂のとき確立さ
れた”白鳳の栄光”でした。
 多感な少年時代に父旅人を失いながらも、坂上郎女を叔母に持ち、わが国のよき伝統
(古歌)と異国芸術(中国文学)の中で、家持は文字通りの貴公子として成長します。
しかしこの交響曲を作った四十歳頃には、既にその暗い宿命をいやと云う程噛み締めて
いました。
 
 大伴氏の宿敵は藤原氏です。
 不比等の娘光明子が聖武天皇に嫁いだことから、藤原氏の勢力は遥かに優勢となりま
した。大伴氏は聖武天皇の皇子で、光明皇后を母としない安積皇子と反藤原派の橘氏を
微かに頼りにしていました。しかし天平十六年(744)、安積皇子が亡くなりますと忽ち
危機を迎えます。不比等の孫藤原仲麿(後の恵美押勝)が孝謙女帝に可愛がられて急速
に台頭して来ます。家持に暫く歌のない時期があるのは、丁度藤原氏の伸長期に当たっ
ており、彼の苦悩を物語っています。彼が復古的な姿勢を執り出したのもこの頃です。
 天平十八年(746)家持は越中守となりました。この遠い地の寂しさから生まれたのが
柿本人麿、山部赤人を偲んだ有名な「山柿の門」と云う言葉です。そして天平勝宝六年
(754)兵部少輔(陸軍次官)に任ぜられてから二年後、心頼みにしていた聖武上皇が亡
くなられます。この歌はその直後に作られたのです。大伴一族の没落はその後雪崩の如
く急速となりますが、家持は既にそれをはっきり読みとっていました。第一楽章には、
ですからハ短調の持つ哀しい音が漂っています。
 
 うつせみは 数なき身なり 山川の
 清サヤけき見つつ 道をたづねな
                            同・巻二十 − 四四六八
 
 第二楽章 − 「人間は儚ハカナいものだ。清らかな山川を見ながら仏道を修行したい」。
一方では自己を含んだ一族を励ましながら、他方では仲麿の力には所詮勝ち目がなく政
治に適さない自己を半ば諦めます。非情な現実と頭の中に描かれる夢とのあまりに大き
な違いに家持の心は揺らぎ、悩み、そして仏道への儚い逃避を考える程弱くなっている
のです。
 
 泡沫ミツボなす 仮カれる身そとは 知れれども
 なほし願ひつ 千歳の命を
                            同・巻二十 − 四四七〇
 
 第三楽章 − 「水沫ミナワのように儚い仮の身であるとは知っているが、なお千年の寿を
願ってしまう自分である」。第二楽章で沈みはしたが、一族の復活を願う心は捨て切れ
ません。それは命が千年延びると同じ奇跡であるかも知れないのですが・・・・・・この余韻
は決して弱くはありません。宿命への挑戦と誇りへの執念が静かに篭められています。
逆境を自覚した家持の詩心は、この最後の楽章で万葉の偉大な精神であることを立証す
るのです。
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