124 「移りゆく時」
 
○移りゆく 時見るごとに 心いたく
 昔の人し 思ほゆるかも
                         大伴家持・巻二十 − 四四八三
 
 天平末期 − それは”移りゆく時”が醜い顔を覗かせた時代でした。藤原氏を中心に
繰り返される血塗チミドロの政争、凶作と疫病の流行、放火と盗賊が横行し、逸楽と博打バ
クチが世を覆いました。人心の乱れを裏書きするかのように、聖武帝は平城京から恭仁宮、
信楽宮、難波宮を転々とさまよいました。折しも中国では玄宗皇帝が崩れて行く時です。
それはまた家持の交響曲を中心に、古代精神が描いた『万葉集』と云う大演劇が大団円
に向かって収束するときでもありました。
 交響曲を作った翌年、家持は詠います。「移りゆく時勢を見るごとに胸は痛み、古人
が偲ばれてならない」と。前年聖武上皇がお亡くなりになり、力と頼んでいた橘諸兄モロエ
も亡くなった七日後の歌です。兵部少輔から大輔へ昇進したのは云え、諸兄の死は家持
に大きな打撃を与えました。政権は諸兄から宿敵の藤原仲麿へ移ったのです。然も、孝
謙女帝と結んだ仲麿は、諸兄の子奈良麿を倒しますが、その仲麿の命もまた短かった。
天平宝字四年(760)光明皇太后がお亡くなりになり、孝謙上皇の愛は仲麿から僧道鏡に
移りました。『続日本紀』に拠りますと「女帝は道鏡を寵幸した」のです。仲麿(恵美
押勝)は四年後に乱を起こして敗れ、そして道鏡の時代が来ます。その道鏡も、重祚し
て称徳帝となられた孝謙女帝の崩御と共に失脚します。正に”移りゆく時”です。
 
 ところで家持は、延暦四年(785)七十年余の生涯を閉じました。その死床は悲劇の花
で飾られました。死体は死後二十日間も放置され、二十年間も位階を取り上げられたま
まで葬られるのです。この年に起きた藤原種継暗殺事件に関与していた、と云う疑いが
掛けられたためでした。名門の族長として、華やかな恋に青春を送り、家門に相応しい
栄職には就きませんでしたが、高級官僚となり、『万葉集』に最後の金字塔を建てた人
として、それは余りにも惨めな最期ではなかったでしょうか。
 
 家持は神話時代から続いた系譜と誇りを激しく意識しました。不遇の彼に味方したの
は女神達(ミューズ)だけでした。恋と望郷と饗宴の中で成長した家持は、揺れ動く政争の
渦の中で自己を見つめたとき、女神達に応えるのです。その詩には先人の人麿、赤人、
憶良等の跡を踏んだ修練と、中国文学の教養、豊かな見聞から生まれた多様さと近代性
があります。ただ一つ残念に思われることは、調べ自体が弱々しいことです。
 しかし、芸術は不滅です。貴公子家持、政治家大伴家持は歴史の中に埋没してしまっ
ても、歌人家持はその数と質において、傑作中の主人公として永遠の光を放っています。
『万葉集』の最後の頁には、家持歌日誌の終止符となる切ないばかりの歌があります。
ときは天平宝字三年(759)元日、
 
 新しき 年の始の 初春の
 今日降る雪の いや重け吉事ヨゴト
                              巻二十 − 四五一六
 
 「新年のはじめのきょう降る雪のように、吉事よ、続け」。
 そのとき家持の視線は、暗い空から落ちてくる生き物のような雪を追っていました。
止めどなく降る雪は落ちるかと思えば舞い上がり、舞い上がると思えば横に走りました。
家持は何時か自分の身体が上へ上へと、舞い上がって行くのを感じました。
 父の旅人の顔、その友の憶良の顔、昔の恋人達の赤い頬、優しかった叔母の坂上郎女、
越中の桃の花、大仏開眼の大行列、沸き起こる鬨トキの声、馬の蹄等々、今誇り高き名門
大伴氏が、否奈良時代と云う大時代が傾こうとしています。ああ − 去年コゾの雪今何
処イズコ。しんしんと降る雪は降り積もって行きます。家持の肩の上にも冷たく、重く。
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