122 「沈痾自哀文チンアジアイブン」
 
○士ヲノコやも 空しくあるべき 万代ヨロヅヨに
 語りつぐべき 名はたてずして
                           山上憶良・巻六 − 九七八
 
 憶良は人生派の詩人と云われます。先に採り上げました「貧窮問答歌」や「子宝」そ
して「世間に住み難きを嘆く歌(巻五 − 八〇四)」などにそれが現れています。また
筑紫で遭難した漁師の妻の嘆き(巻十六 -− 三八六〇〜六九)をも詠います。役人であ
りながら、貧しく下積みの庶民に同情を寄せます。
 憶良には世間(世の中)の歌が多い。その根底にあるのは儒教的な思想で、その一方
には無常への絶えないさすらいがあります。憶良にとって世間の道理とは「父母チチハハを
見れば尊し、妻子メコ見ればめぐし愛ウツクし」であり、「愛は子に過ぎたるはなし」なので
す。庶民の無事息災を祈りながら自分も詠う。「物の数ではない身であるが、千年も生
きたいと思う」。憶良はしかし、当時の律令体制に疑いの目を向けていません。その体
制の中で、如何に民が安楽に暮らせるか、また官人として自分が生き得るかを考えてい
ました。しかし唐文化の摂取による華やかな貴族文化、その一方では病気の流行、通貨
膨張(インフレ)の進行、農民の窮乏と逃散、期待は次第に裏切られて行きます。憶良の晩
年の作は生、老、病、死を主題(テーマ)にしたものとなって行きます。その歌境は「山上
の操」とも呼ばれる程特色を持っていました。
 
 生に対する執着は特に強かった。「生は貪るべく、死は畏るべし・・・・・・福無きことの
至りて甚しき、すべて我に集まる・・・・・・」は有名な自伝的断片です。「沈痾自哀文チンアジ
アイブン − 痾ヤマイに沈みて自ら哀しぶる文 −」の一節です。執拗なまでの生への執着と、
やり場のない長患の苦しさ、人生の無常を長い漢文で綴っています。
 
 憶良が史実に現れたのは、大宝元年(701)正月二十三日、第七次遣唐使随員の末席に
連なった、四十二歳ときです。
 その後養老五年東宮侍官となり、筑紫国司(福岡県知事)となって、太宰府長官とし
て赴任して来た大伴旅人との交遊が始まります。
 天平三年、憶良がやっと憧れの都に帰りました。第九次遣唐使に「好去好来の歌(巻
五 − 八九四〜六)」の歌を贈っていますが、既に重い病に罹り、死の恐怖に慄オノノいて
いました。伝え聞いた藤原朝臣八束ヤツカが病気見舞に人を遣わせたとき、憶良は涙を拭っ
て口遊クチズサんだのが、見出の「士ヲノコやも」の歌です。そして天平五年、最も畏れてい
た死を迎えました。年七十四歳でした。
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