121 「旅人の晩年」
 
○よのなかは むなしきものと しるときし
 いよよますます かなしかりけり
                           大伴旅人・巻五 − 七九三
 
 神亀三、四年の頃、名門大伴家の当主旅人は、太宰府長官として九州へ下りました。
年は六十二、三歳で、権力は競争相手藤原一族の手に移って行ったので、中央政権から
遠離ったのでした。
 神亀五年には、旅人は苦労を共にした妻にも先立たれました。「世の中は空しいもの
と知ってはいたが、今自分で体験してみると、悲しみが一層増してくる」。この歌は、
一字一音で書かれ、難しい字も使われていません。「むなし」は仏教で云う色即是空の
意味でしょうか。
 
 あさりする あまのこどもと 人はいへど
 見るに知らへぬ うまひとのこと
                           大伴旅人・巻五 − 八五三
 
 佐賀県松浦川に旅したときの歌で、『遊仙窟』を意識した漢文の序が付いています。
「うまひと」とは貴人のことで、神仙的な美女と、幻想のうちに詠い交わした虚構です。
其処には老荘的な虚無感が根挿しています。旅人の歌の殆どは、この太宰府時代のもの
です。然も漢詩に対して倭歌と題した彼の作風は即興的で易しく、『万葉集』に新風を
吹き込みました。望郷の歌、讃酒歌、梅花の宴の歌等々、酒に浸り、歌に憂いを紛らわ
した旅人でした。そして斯道で下僚の山上憶良と深い交わりを持ちます。
 天平二年(730)十二月、旅人は大納言として中央へ復帰することになり、別れの宴に
は筑紫歌壇の異色等が集い、憶良は詠いました。
 
 よろずよに いましたまひて あめの下
 まをしたまはね みかどさらずて
                                巻五 − 八七九
 
 「万年後までも長生きして、朝廷にお仕え下さいますように」。
 別れは辛い。遊び女も別れを惜しんで歌を贈ります。旅人も応えます。
 
 丈夫マスラヲと 念へる吾や 水茎ミヅグキの
 水城ミヅキの上に 泣ナミダのごはむ
                                巻六 − 九六八
 
 「自分では立派な貴族の男子と思っているのに、女との別れに涙を拭うなんて」。老
貴族の誇りと姿勢(ポーズ)が見えます。
 瀬戸内海を陸路都へ。
 
 吾妹子が 見し鞆浦の むろの木は
 常世トコヨにあれど 見し人そなき
                                巻三 − 四四六
 
 「太宰府へ下る途中、鞆浦で見た榁ムロの木(杜松ネズのこと)は今も変わらないのに、
ともに見た妻はもういない」。
 佐保の家に旅人は戻って来ましたが、張りのない日々でした。胸を張って歩いた青年
時代を偲ぶ旅人ですが、今は斜陽の大伴家にあって、”白鳳の栄光”を想い見たかった
のでしょうか。そして翌天平三年、旅人は六十七歳で亡くなりました。
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