120 「人麿の死」
 
○且今日ケフ〃〃〃ケフと 吾アが待つ君は 石川カハの
 貝に交マジりて ありといはずやも
                           依羅娘女・巻二 − 二二四
 
○直タダにあはば あひかつまじし 石川に
 雲立ち渡れ 見つつ偲シノはむ
                              同・巻二 − 二二五
 
 万葉の偉大な詩人人麿が何時何処で死んだか − 出生が定かでないように、これもま
た定かでありません。その一つの手がかりになるのが、前掲の「鴨山の・・・・・・」の歌で
す。「鴨山・・・・・・」の歌は題詞に拠りますと、石見の国(島根県)で死ぬとき詠んだと
あり、巻二の一三三には石見の国の女と別れたときに作る、と云う題詞が付いています。
 
 「今日は来られるか、と待ち焦がれていたあなたは、石川の貝に混じっていると云う
ではありませんか」「もう直接あなたに会うことは出来ないでしょう。石川の辺りに雲
よ立ち渡れ。その雲を見てあなたのことを偲びましょう」。
 斎藤茂吉は信じられる空想として、鴨山を島根県邑智郡邑智町の旧浜原村津目山に求
めます。近くに粕渕、亀などがあり、江川が流れている亀カメの地は、昔は「かも」と云
ったに違いありません。役人として人麿は其処へ採鉄作業の巡視に行き、疫病に罹って
707年、四十六、七歳の生涯を閉じたのではないかと、推測しています。後年茂吉は役場
の土地台帳で、邑地郡湯抱温泉に鴨山と云う地名を発見し、確信を深めています。
 
 これには異説が多い。例えば土屋文明氏は、人麿の没した処を葛城山中であると説い
ています。同氏は「大和鴨山」の中で鴨山は葛城の鴨と関係があり、石川は大阪府富田
林市の近くを流れる石川であると説明します。石川の中流沿岸は古代の葬送の地で多く
の石仏がある他、敏達、舒明、推古、孝徳帝陵や、聖徳太子陵もあって、「王陵の谷」
と呼ばれる処で、人麿の死と結び付けても不思議ではありません。更に大和川の下流の
河内平野には依羅ヨサミと云う土地もあります。
 
 このように人麿は全てが謎に包まれています。ただ一つ確かなことは、多くの歌によ
って作り上げられた人麿美、人麿音楽の沈痛、荘厳な響きの巨大さと、其処から感じら
れる一芸術家の内面の格闘のすさまじさです。豊かな詩才と得難い時代の出合いが、大
輪の花を咲かせたのです。
 北葛城郡新庄町の人麿神社の裏手には、「柿本大夫人麿之墓」と刻まれた碑がありま
す。
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