119 「白鳥の歌」
 
○鴨山カモヤマの 磐根イハネし巻マける 吾をかも
 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
                           柿本人麿・巻二 − 二二三
 
 これまで人麿は、柿本人麿歌集をも含めて何度も本稿に登場しました。宮廷賛歌、恋
の歌、挽歌などを、或いは長歌に、或いは短歌にと、そして舞台も飛鳥に、山辺の道に、
吉野川に、近江の荒都に、と転々としています。歴史と伝説、空想と真実の間に生きた
巨大な詩人として。ではそろそろ人麿の収束に取り掛かりましょう。
 
 人麿の出生、経歴、没年ははっきりしていませんが、春日、和爾、小野氏等と同族の
出である、と云う説は可成り信頼性を持ちます。これらは何れも旧族であり、多くの古
い伝承を持っていました。折口信夫博士もある時期、人麿の背景には柿本族と云う神人
の旧族があったことを考えるべきである、と説きました。人麿が、民謡とか物語とかの
古い類型を心象(イメージ)の中で分裂させながら、新しく燃焼させているのも、彼が旧族
の出であったからでしょう。
 
 人麿の生きた時代は、壬申の乱を経て、律令体制が整えられて行く頃でした。そのよ
うな時代の或時期、人麿は宮廷詩人の栄誉を担いました。しかし彼には律令体制に順応
し切れない古い血がありました。それが歌に滲み出て、斎藤茂吉の云う「沈痛と混沌」
となったのではないでしょうか。然もその晩年には貴族官僚の文学が成長し、初唐文学
の輸入によって、漢詩文の世界が開き始めました。人麿の作と明記されている歌が、奈
良遷都の直前で絶えているのも象徴的であり、その最後の歌が見出の「鴨山の・・・・・・」
です。
 人麿は挽歌によって、いろいろな死者の像を描いていますが、この歌は彼の死の自画
像とも云えるものです。心なしか霊肉の愛と苦悩の響きが篭もっているような気がしま
す。「この鴨山の岩根を枕に死のうとしている自分を、それとは知らずに妻は待ち焦が
れていることだろう」。
 
 人麿の伝説は、今も全国各地にある社寺や歌塚に残っています。天理市和爾公園にあ
る歌塚もその一つで、この他奈良県内だけで吉野の子守社近くの歌塚、御所市の人麿神
社や柿本寺などがあります。そして「火止マル」から火の用心の神、「人生マル」から
安産の神、「ヒリ止マル」から下痢止めの神などに神格化されています。雑草の中で、
皹割れた姿が痛々しい。流浪の影、敗残の色が濃いと云われた晩年の歌そのもののよう
な侘びしさが感じられます。
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