《晩秋》
115 「鹿鳴」
○暮ユフされば 小倉の山に 鳴く鹿は
今夜コヨヒは鳴かず 寝イねにけらしも
伝、斉明天皇・巻八 − 一五一一
『日本書紀』では鹿の声を、む「さやかにして悲し」と表現しています。「いつも夕
方になると、小倉の山で鳴く鹿が今夜は鳴かない。共寝したらしいな」。
妻恋う鹿が鳴いたと云う小倉の山は、桜井市内の忍坂山の近くと云われますが、詳し
いことは分かりません。巻九− 一六六四には、雄略天皇製と伝えられる歌が載っていま
すが、「鳴く鹿の」が「「臥す鹿の」となっている他は全く同じです。古くからの歌の
基となる伝承があったのかも知れません。
秋さらば 今も見るごと 妻恋ツマゴヒに
鹿カなかむ山そ 高野原の上に
長皇子・巻一 − 八四
天武帝の皇子長屋王が、天智帝の皇子志貴皇子と、平城の佐紀で宴を張ったときの歌
で、『懐風藻』の「相顧みる鹿鳴の盃、相送る仕人が帰り」と相通じます。古歌の素朴
で直情的なのには及びませんが、奈良時代の文化人の交遊を知ることが出来る上、詩経
文学の投影が窺われる点で興が深い。『詩経』にも「鹿鳴」と題する典雅な饗宴の詩が
あります。「暮されば」の歌は一般に幽邃ユウスイと云われますが、また中には単なる叙情
歌ではなく、物語的に背景もあると説く人もあります。「仁徳紀」に次のような話が載
っています。
摂津の国の菟餓野トガノで、仁徳帝は皇后と毎夜、鹿の鳴き声をお聞きになりました。
その鳴き声は日毎に悲しさを増しました。ところがある夜、鳴き声がぱったり止みまし
た。明くる日猪名県イナノアガタ佐伯部サエキベと云う男が皇后に御馳走を献上しました。天皇
が「これは何か」と訊ねられますと「菟餓野の雄鹿の肉です」と答えました。天皇は怒
って、以後この男を近付けませんでした。
この話は「摂津国風土記」にも出ており、当時としては夢合わせの諺コトワザにもなった
程有名な話であったと云います。鹿の肉と云いますと、万葉の吟遊詩人も巻十六 − 三
八八五において「鹿を膾ナマスにする」と詠っています。また大伴家持にも鹿鳴歌が二首あ
りますが、これは明らかに長屋王の歌を意識したものです。
吉名張ヨナバリの 猪養イカヒの山に 伏す鹿の
嬬ツマ呼ぶ声を 聞くがともしさ
大伴坂上郎女・巻八 − 一五六一
猪養の山とは初瀬の奥山のことで、「ともしさ」は羨ましいの意です。妻恋ふ鹿の鳴
く声は、何時の時代でも、詩人の哀感を誘いました。
このころの 秋の朝開アサケに 霧ごもり
妻呼ぶ雄鹿シカの 音コエのさやけさ
作者未詳・巻十 − 二一四一
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