109 「軽カルの里」
 
○天アマ飛ぶや 軽の路は 吾妹児ワギモコが 里にしあれば
 ねもごろに 見まくほしけど やまず行かば 人目を多み
 まねくいかば 人知りぬべみ さねかづら 後もあはむと
 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣イハカキ淵の
 隠コモりのみ 恋ひつつあるに わたる日の 晩クれぬるがごと
 照る月の 雲隠るごと 奥津藻モの なびきし妹は
 黄葉モミチバの 過ぎていにきと 玉梓タマヅサの 使の言へば
 梓弓 音オトにも聞きて いはむすべ せむすべ知らに
 声のみを 聞きてありえねば 吾アが恋ふる 千重の一重ヒトヘも
 なぐさもる 情ココロもありやと 吾妹児が 止まず出で見し
 軽の市に 吾が立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に
 なく鳥の こゑ(音)も聞えず 玉鉾ホコの 道行き人も
 独りだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ソデぞ振りつる
                           柿本人麿・巻二 − 二〇七
 
 軽の里とは今の橿原市大軽付近で、古くは応神帝の都があったとも伝えられ、天武帝
の頃には大きな市が立って、軽の市と呼ばれました。神への信仰も盛んで、市の中には
祭場をあったと云います。近くの丸山古墳は蘇我馬子が石川精舎を建てた処で、古代街
道の要衝、産業文化の中心でした。然もこの繁栄の地を包むように、蓮ハスの花で有名で
あった剣池や軽池があり、森が深く生い茂って、自然の姿も美しい。そのような処に人
麿の妻が人目を忍ぶように住み、何時死んだとも分からぬうちに死んだのでしょうか。
「軽の里には私の想い人が住んでいた。人目が多いので、度々行くことを躊躇っている
うち、その妻が死んだと云う知らせが来た。嘆き悲しみながら私は軽の里へ行ったが、
畝傍山に鳴く鳥の声は聞こえても、妻の声はもう聞かれない。道行く人も一人さえ妻に
似た者がなく、私は空しく妻の名を呼び続けて袖を振った」。歌の大意はこのようです
が、「天飛ぶや」は天上を飛ぶ雁カリに掛けた軽の枕詞です。「天だむ軽のおとめ」とも
云いました。このことから、軽の町には古くから歌垣が営まれていたことが窺えます。
また『古事記』に出てくる「軽皇子と軽大郎女の悲恋の物語」も連想され、軽の女は美
女であると云う心象(イメージ)が強い。妻の死を悲しんだ人麿のこの長歌も、或いは軽の
里に纏わるこのような伝承が、重なり合ったのかも知れません。
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