106 「山あらし」
 
○み吉野の 山の嵐アラシの 寒けくに
 はたや今夜コヨヒも あが独り寝む
                            文武天皇・巻一 − 七四
 
 「吉野の山の嵐が寒い今夜も、もしかしたら一人寝をすることであろうか」。
 源義経が山伏に姿を変え、後醍醐天皇が南朝の哀史を展開した、暗い物語の舞台は其
処にありました。
 
 神さぶる 磐根こごしき み吉野の
 水分ミクマリ山を みればかなしも
                          作者未詳・巻七 − 一一三〇
 
 上千本を登り詰めた処に、水分山を背にした水分神社があり、この水分神社は豊臣秀
吉が建て替えたものです。吉野川分水で和歌山との間に、今もなお絶えない”水争い”
は、此処に源を発しており、また、雨乞いの聖地です。『日本書紀』に拠りますと、天
武二年四月、馬を吉野水分の神に奉って雨乞いをしたと云う記事があります。
 
 昔、秀吉が此処に祈願して秀頼を授かりました。喜んだ秀吉がこの社を建て替え、八
角の御神輿をお礼に奉ったと云います。
 後に本居宣長も、父母が吉野に三度も足を運んで生まれたと云われ、宣長自身此処に
参詣したときの感動を『菅笠日記』に記しています。また、藤原道長の『御堂関白記』
に拠りますと、一条帝の中宮となった娘の彰子の安産祈願のために、此処に参詣してい
ます。神社には「子守宮」とのお札が下がっています。
 
 み吉野の 高城の山に 白雲は
 行きはばかりて たなびけり見ゆ
                           作者未詳・巻三 − 三五三
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