105 「多武峯」
○うちたをり 多武の山霧 繁みかも
細川の瀬に 波の騒ける
柿本人麿歌集・巻九 − 一七〇四
「多武峯の山霧がいっぱいに立ちこめているせいだろうか、細川の瀬に波がざわざわ
と音を立てている」。
多武峯の曲がりくねった巨体と神秘な山霧は、今も昔と変わっていません。
千三百年前、天智天皇と藤原鎌足がこの”多武タムの峯”に登り、山霧の中で密かに蘇
我氏打倒の相談を交わしたと云います。多武は曲がりくねっていると云う意味ですが、
それが「相談」の伝説と重なり合って、談山になったようです。
やがて鎌足の死後、その長子定慧の手によって十三重塔が建てられたと云います。塔
を中心に講堂が建ち、それが妙楽寺の興りと云われます。平安時代の名僧の努力により
寺領は次第に広げられ、神社と寺の同居した妙楽寺になりました。この寺が僧兵の軍事
的拠点ともなり、また広大な山林を擁して経済力をも持っていました。ところが同じ藤
原氏の氏寺であった興福寺とは仲がよくなく、争いが絶えませんでした。争いの元はは
っきりしませんが、妙楽寺が十三重塔を藤原氏の宗廟(鎌足の墓)と宣伝したのが、興
福寺の機嫌を損ねたものらしい。
神社の石段も襲撃に備えていたと云われます。百数十段の石段は四つに区切られてお
り、区切り毎に広い踊り場があり、それが左右に延びて道になっていました。その道に
沿って城壁に似た旧僧坊の石垣が築かれていました。石段は高く険しく、巨木に囲まれ
て薄暗い。霧の多い多武峯は夜襲には絶好の地ですが、そこで石段も工夫されて攻撃し
にくいように造られたのでしょう。城壁の縁に立って下方を覗きますと、山霧がうすい
靄モヤとなって広がっています。
ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を
高屋の上に 棚引くまでに
柿本人麿歌集・巻九 − 一七〇六
「夜霧は立ち篭めている。高屋山に棚引く程に」。高屋は今は高家コウゲと呼ばれ、多
武峯から大原へ下る途中です。
倉橋の 山を高みか 夜ごもりに
出でくる月の 光乏しき
間人宿祢・巻三 − 二九〇
「倉橋の山が高いからであろうか、夜更けに出てくる月の光の淡いことよ」。倉橋山
と云う山は今はなく、異説はありますが、その山は今の音羽山と云われています。ただ
し、国宝十一面観音で知られる聖林寺の東に、倉橋と云う地名があります。
「細川の瀬」は、多武峯から石舞台に下りて行く眺望のいい路です。
妙楽寺は明治三年(1870)廃仏毀釈キシャクにより、聖霊院を本殿とする談山神社に変身
しました。
なお、松尾芭蕉は多武峯から細峠を越えて、吉野へ向かいました。
雲雀より上にやすらふ峠かな
は、この峠で生まれました。
[次へ進む] [バック]