104 「秋の風」
 
○君待つと わが恋ひをれば 我が屋戸ヤドの
 すだれ動かし 秋の風吹く
                            額田王・巻四 − 四八八
 
○風をだに 恋ふるは羨トモし 風をだに
 来むとし待たば 何か嘆かむ
                            鏡王女・巻四 − 四八九
 
 万葉初期の有名な歌人額田王と鏡王女は、姉妹であったかどうかは別として、万葉集
中の有名な女主人公であり、特に親しかった二人は向かい合って、簾スダレ越しに入る風
に思わず女心を唱和するのでした。
 額田王が「あなたを一向ヒタスラ待っているとき、簾を動かして秋の風が吹く」と嘆きま
す。すると鏡王女は「切めて風だけでも待ち慕うあなたが羨ましい。あなたのように風
の訪れだけでも来ないかと待つことが出来たら、どうしてこんなふうにため息など吐き
ましょう」と応えます。「物語の女」の世界のようです。
 
 額田王が「早くいらして下さい」と呼びかけている相手は天智天皇です。彼女には、
天皇の弟大海人皇子(天武天皇)との恋に燃えた青春がありました。大海人皇子との間
に十市皇女がありながら、何故天智帝に嫁いだのか、とそのような詮索は万葉の世界に
は不要なのであるとも云えます。
 一方、鏡王女にもまた天智天皇の面影が広がっていました。
 
 秋山の 樹の下がくり ゆく水の
 わがこそまさめ 御念ミオモヒよりは
                                 巻二 − 九二
 
 彼女が天智帝にお応えした歌です。「秋山の木の間を流れる水のように、私の想いこ
そあなたに勝ってのるのですよ」。
 その後鏡王女は藤原鎌足の正妻になり、不比等を生みました。
 見出の歌は、天智八年に鎌足が死んでからのものと云われます。秋風さえ訪れて来て
くれないわが身を恨みながら、秋風を捉え、恋に生きる宿命を背負った女心を鮮やかに
詠い上げた場所は定かではありません。
 「すだれ動かし秋の風吹く」と云う描写は中国風の詩境です。近江京は漢文学が盛ん
でしたので、額田王も中国詩の世界を意識していたのかも知れません。
 なお、風が吹く、と云う言葉には、恋人の魂が訪ねて来る前兆である、と云う感じが
ありました、と説く人もおります。
 
 玉垂ダレの 小簾オスの隙スゲキに 入り通ひ
 来ね垂乳根の 母が問はさば 風と申さむ
                         作者未詳・巻十一 − 二三六四
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