《夏より秋へ》
 
103  「晩夏の歌」
 
○こもりのみ 居ればいぶせみ なぐさむと
 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし
                          大伴家持・巻八 − 一四七九
 
 夏も何時しか深い。
 柿本人麿は「夏草の 思ひしなえて・・・・・・」(巻二 − 一三一)と、別離にもの思う
男女の姿を、夏草のようにしなえると詠い、「夕星ユウヅツの か行きかく行き・・・・・・」(
巻二 − 一九六)と、夏の夕星のようにさまようと嘆いています。
 
 日下江クサカエの 入江の蓮ハチス 花蓮
 身の盛り人 ともしきろかも
                                  「古事記」
 
 かげろう空の、蓮ハスの花も青い藻も微睡マドロむ古い国。「その蓮の花にように、華や
かな女盛りの人が羨ましい」。大和や河内の沼や森蔭モリカゲの池に香った蓮の花も、夏長
タけて何時しか散って行きました。今、野中の水には密かに水草の花がこぼれます。
 
 秋づけば 水草ミグサの花の あえぬがに
 思へど知らじ ただにあはざれば
                          作者未詳・巻十 − 二二七二
 
 「水草の花のように、今にもこぼれ落ちそうな想いで物思いするけれど、お分かりに
なりますまい。直ジカに逢うこともないのですから」。
 そして何度か夕立があり、白雨が過ぎました。
 
 伊香保嶺ネに 雷カミな鳴りそね わがへには
 故は無けども 児らに寄りてそ
                            同・巻十四 − 三四二一
 
 「榛名群山(群馬県)に、雷よ鳴らないで。私には何の訳とてないが、恋人が雷嫌い
なんだ」。
 
 伊香保ろの やさかの井手に 立つ虹の
 あらはるまでも さ寝ネをさ寝てば
                            同・巻十四 − 三四一四
 
 「虹のように人目につくまで、心ゆくまで情を交わし続けられたら」と、このような
東歌もありした。
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