102 「食生活」
○醤酢ヒシホスに 蒜ヒルつき合カてて 鯛タヒ願ふ
われにな見えそ 水葱ナギの羹アツモノ
作者未詳・巻十六 − 三八二九
この歌は「酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠み込んで一首作れ」との題で詠んだ歌です。醤
とは、未だ搾っていない醤油の素で、「ひしおすに蒜をつき込んであえものにし、これ
で鯛が入れば満点だと思っている私に、貧民の食べる水葱の吸物なんか、見えない方が
いい」。
たわいもない歌ですが、万葉人の食生活を知る手がかりとして、なかなか興味深い。
橿原の遺跡からも鯛やエイなどの骨も出て来ており、日本人は早くから魚肉に親しん
でいたことが分かります。
梨なつめ 黍キミに粟つぎ 延ハふ葛クズの
後も逢はむと 葵アフイ花咲く
巻十六 − 三八三四
黍を君、粟を逢はむ、葵は会う日に引っかけて、果物や五穀を詠み込んでいます。宴
席で作ったのでしょうか。
昔から魚をいろいろ料理して食べて来ましたが、仏教が国の保護を受けるようになり
ますと、肉や魚を食べてはならぬ、との御触オフレも出たようです。
あしひきの 山にも野にも 御狩人ミカリビト
得物矢サツヤ手挟み 散サ動きてあり見ゆ
山部赤人・巻六 − 九二七
狩の獲物を囲んでの酒盛りは、大きな楽しみであったでしょう。
石麻呂イハマロに 我ワレ物申す 夏痩セせに
良しといふ物ぞ 鰻ムナギとり食せ
大伴家持・巻十六 − 三八五三
奈良時代に既に「土用鰻」の習慣があったようです。野菜などは蒜や水葱の他、青菜
や嫁菜ヨメナなどは、律令制の時代には栽培して大量生産も出来るようになっていたようで
す。
妻もあらば 採みてたげまし 佐美サミの山
野の上ウヘのうはぎ 過ぎにけらずや
柿本人麿・巻二 − 二二一
この歌は、人麿が瀬戸内海の沙美島で、石ころだらけの海浜に打ち上げられた男の死
体を見て詠んだと伝えられます。「もし妻が側にいたなら、この沙美の山の野辺に生え
た嫁菜を摘んで、食べさせただろうに。嫁菜はすっかり盛り頃を過ぎてしまった」。
正倉院文書に見える東大寺写経生の欠席届や休暇願を見ますと随分下痢が多い。「赤
痢病」と書いたものもありますが、これは、粗食と過労による急性胃腸炎と考えられま
す。「久しく胸が痛み、足が痺れて困る。薬にしたいので、三日に一度位は酒を支給し
て欲しい」「毎日麦を支給せよ」「玄米でなく、中程度でいいから、精米した飯にして
くれ」「月に五日は休暇が欲しい」等々。貴族はともかく、当時の庶民の食生活は、貧
しいものであったようです。
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