101 「官人生活」
 
○このころの 吾が恋力コヒヂカラ 記シルし集め
 功クウに申さば 五ゐ(位)の冠カガフリ
                         作者未詳・巻十六 − 三八五八
 
 「この頃の私の恋力チカラを税チカラに換算して、その納税額を記した申請書を奉ったら、
五位の位を賜る程の功績だ」。
 税の重いことから、恋情を恋人への税と洒落たもので、恋人はこの恋税に応えなくて
も、政府は五位のご褒美を賜ると云う、戯笑歌です。『続日本紀』に銭千貫を献納して
外従五位を賜ったと云う記事もあります。五位と云う位は下級官人の渇望の的でした。
 
 律令体制は天皇と、それを巡る様々の貴族派閥が支配権力を握る法治体制でした。中
央官人約一万、地方官人数千、その中で給与を保証された五位以上の大夫が高級貴族官
僚(高等官)で、その数は数百人であったと云います。当時も科挙と呼ばれる登用試験
はあり、儒教的一般教養科目を中心とした大学制度もありましたが、上級貴族出身の子
弟には、二十一歳になりますと自動的に従五位下乃至従八位下を賜る蔭位オンイの制があり
ました。
 上流官人や十二単を著けた女官の生活は豊かでした。
 
 ももしきの 大宮人は 暇イトマあれや
 梅をかざして ここにつどへる
                          作者未詳・巻十 − 一八八三
 
 春日野辺りの春の野遊や波斯(ペルシャ)伝来の打毬(ポロ)の遊びに興じたようです。
唐詩に「葡萄の美酒、夜光の杯」などと歌われましたが、玉杯を傾ける春夜の宴の舞姫
の微笑が忘れられないこともありました。
 
 ともしびの 光カゲにかがよふ うつせみの
 妹がゑ(笑)まひし 面影に見ゆ
                         作者未詳・巻十一 − 二六四二
 
 官人と女官の恋も戯れもありました。
 
 うちひさす 宮に行く児を ま愛カナしみ
 止むれば苦し 遣ヤればすべなし
                         大伴宿奈麻呂・巻四 − 五三二
 
 宮廷へ召されて行く女の可愛さ、引き止めればよくないし、行くことを許せばやるせ
ない。
 
 おほろかに 我し思はば かくばかり
 難カタき御門ミカドを 退マカり出めやも
                         作者未詳・巻十一 − 二五六八
 
 「いい加減な恋なのだったら、これ程厳しい宮廷の門を退出することがありましょう
か」。
 
 さすたけの 大宮人は 今もかも
 人なぶりのみ 好みたるらし
                       中臣朝臣宅守・巻十五 − 三七五八
 
 「あなたも大宮人の通例に漏れず、人ばかりなぶっているのでしょう」。
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