093 「磐姫陵イワノヒメノミササギ」
 
○君が行ユキ 日ケ長くなりぬ 山尋ね
 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
                            磐姫皇后・巻二 − 八五
 
○かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の
 磐根イハネし枕マきて 死なましものを
                               同・巻二 − 八六
 
 平城宮跡の北の、なだらかな奈良山の麓には、和爾氏など古墳が多い。その一つに、
磐姫皇后の陵ミササギと伝えられる古墳があります。前方後円の大きな墳墓で、鬱蒼と茂
り、二重に巡らした堀の水面には鉄錆色の藻が浮かんでいます。
 磐姫は葛城氏出身で、仁徳天皇の皇后と伝えられています。『古事記』や『日本書紀
』には、嫉妬深い女王のように描かれています。「地団駄を踏んで、妬みもうた」が、
天皇は遂には皇后の不在中、若い美女を宮中に入れたもうた。当時としては、さほど珍
しいことではありません。しかし、磐姫皇后には許せませんでした。山城の筒城宮ツツキノ
ミヤに篭もったきり、どうしても天皇の迎えに応じませんでした。
 「あなたがお出かけになってから大分長く日が経ちました。山を尋ねて迎えに参りま
しょうか、それともじっと待っていましょうか」「こんなにも恋慕っていなで、高い山
の岩を枕にして、死んでしまったらよかったものを」。
 
 『古事記』に拠りますと、衣通王ソトオリオウ即ち軽の大郎女オホイラツメは、兄の軽の太子を恋
して、遂に情死しますが、恋慕に耐えないで、
 
 君が行ユキ 日ケ長くなりぬ 接骨木ヤマタヅの
 迎へを行かむ 待つには待たじ
 
と詠っています。接骨木ニワトコは、葉が向き合って生えるので、「迎え」を引き出すため
の言葉のように使われていたところから、この歌の方が単純で古いとされていました。
ところが、折口信夫博士説では、「山たづね」と云うのは魂タマ恋ゴいの方法であって、
「恋」は魂恋いから発生して、魂恋いの呪術的な意味がある、と云う解釈で、磐姫皇后
の歌の方が古いとしています。
 この二首の歌は、本当には磐姫皇后の作とは云えないでしょう。恐らくは、後の恋歌
が磐姫伝説と二重映しになって、『万葉集』に名を留めたのでしょう。
 とにかく、二人共激情の伝説の女主人公でした。
 
 中国において、六朝リクチョウの梁の簡文帝が皇太子であった頃、「宮体」と呼ばれる詩の
表現様式(スタイル)が流行しました。男が女の心になって作る艶情の歌です。或いはこの
宮体文学などの影響を受けた知識人によって作られた歌かも知れません。
 なお、磐姫皇后の歌は前記二首に続き、
 
 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
 わが黒髪に 霜の置くまで
                                 巻二 − 八七
 
 秋の田の 穂の上に霧キらふ 朝霞
 いづへの方に わが恋やまむ
                                 巻二 − 八八
 
と四首を以て、恋する女心の起承転結をなしています。
[次へ進む] [バック]