092 「葛城の落日」
 
○子らが名に かけの宜ヨロしき 朝妻アサヅマの
 片山ぎしに 霞たなびく
                        柿本人麿歌集・巻十 − 一八一八
 
 「少女等の名にかけて呼ぶに相応しい朝妻。その山の、片側だけに切り立った崖に、
霞がたなびいている」。
 葛城は何か神秘的な情念を誘います。律令国家の支配への抵抗(レジスタンス)に、民間山
岳信仰を強調した役の行者の修行した山です。
 東麓の森脇の森に一言主神社があります。葛城の山霊でした。
 
 『古事記』に拠りますと、雄略天皇が葛城山で狩をされた時のこと、大きな猪イノシシが
出ました。そこで、鏑矢カブラヤを射ましたが、急所を外れ、手負いの猪は凄い唸りを上げ
て突進して来ました。這々ホウホウの体テイで、天皇は榛の木ハンノキに逃げ登ります。
 
 やすみしし 我が大君の 遊ばしし
 猪シシの 病猪ヤミシシの 唸ウタみ畏カシコみ 我が逃げ登りし
 在丘アリヲの 榛ハリの木の枝
 
 さて、またあるとき、天皇は青い衣に紅の紐を付けた大勢の家来を引き連れ、葛城山
へ登られました。見ますと、向こうの尾根を全く同じような行列が登って行きます。「
この国に、自分の他に大君はいない筈。誰だ」と訊ねられますと、同じように答えます。
怒って、一斉に矢を番ツガえますと、向こうの行列も、一斉に矢を番えます。この辺りは
山彦や、高山の尾根で自分の影が濃い霧に映る、あの不思議なブロッケン現象の心象(
イメージ)があるようです。
 遂に相手は名乗りました。「悪事マガコトも一言、善事も一言、言離コトサカの神。葛城の一
言主の大神ぞ」。これには雄略天皇も驚かれ、弓矢や刀、着ていたものまですっかり献
上し、大神も手を打って喜び、この捧げ物を受け取れたと云います。
 この伝説は、ある意味で古代宮廷と、それより古い土着豪族との和解の様を象徴して
いるのかも知れません。あるときは武力で脅し、あるときは宥ナダめて、大和地方を平定
して行った過程を物語る一齣ヒトコマです。
 葛城の夕日は、東麓の神々の森を華やかに照らし出しています。
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