091 「豪族の血」
 
○葛城カヅラキの 襲津彦ソツヒコ真弓 新木アラキにも
 たのめや君が わが名告ノりけむ
                         作者未詳・巻十一 − 二六三九
 
 襲津彦は、大和と河内を分ける葛城連山の東麓の葛城山に、早くから栄えた旧族の血
筋を引く強弓の誉れ高い武将でした。『日本書紀』に引用する百済本紀に「沙至比跪サチ
ヒコ」とあるのは、この襲津彦かと云われていますが、武勇を以て知られる将として、伝
説化されていたのでしょう。或いは葛城山人の伝説の中心であったとも云えましょう。
 「葛城襲津彦が持つ真新しい強弓のように、妻の私を頼りにしておいでなのでしょう
か。あなたは、私の名を人に漏らしてお仕舞いになって・・・・・・」。
 
 四、五世紀、葛城氏の勢力は大変なものであったらしい。御所ゴセ市室ムロの室大墓の広
大な前方後円墳もそれを物語ります。その祖は、襲津彦の父に当たると云う武内宿祢タケシ
ノウチノスクネでした。宿祢は『古事記』や『日本書紀』に拠りますと、六代の天皇に仕え、何
と三百歳を越えたと云います。これは或いは、一人の人物ではなく、襲名と云う習慣が
その頃既にあったかも知れませんが、早くから大和朝廷から大臣の姓を与えられ、平群、
巨勢、蘇我などの氏族も皆、宿祢の子孫とも云います。深い森に覆われた葛城の山襞ヤマ
ヒダ、華やかで神秘的な葛城の夕日・・・・・・、そのような心象(イメージ)が、この不気味な
人物を作り上げたのかも知れません。
 
 系譜に拠りますと、葛城氏は多くの皇后を出したと云います。例えば、仁徳天皇の妃
磐姫イワノヒメがおります。しかしこの山麓で栄えた豪族も、やがて大伴、物部氏等に押され
て勢力を失って行きます。文化の中心は東の飛鳥地方へ移り、葛城山の麓は伝説の世界
になって行きました。『万葉集』においても、葛城を詠んだ歌は最早少なくなっていま
した。しかし、何時の時代にも、この地方は隠然たる勢力を持っていました。山に纏わ
る宗教的雰囲気のせいでしょうか。
 葛城の東麓には、高鴨神社の森、葛城水分神社、一言主神社など謂イワレの深い、古い森
が続いています。
 高鴨神社の森は、葛城の鴨の神名備であって、今も神々の坐ます気配が漂います。祭
神には「アジスキタカヒコネ」を祀っています。葛城の大和舞の歌の生まれたのも此処
でしょうか。
 
 しもと結ユふ 葛城山に 降る雪の
 間なく時なく 思ほゆるかな
                                    古今集
 
 それは大嘗会 − 鎮魂祭のときの古い舞歌でした。古い神歌が、恋の心をも交えたの
です。山霊の篭もるこの深い森の中で、華やかな舞が繰り広げられたのでしょうか。
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