078 「子宝」
○瓜ウリ食ハめば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲シヌはゆ
何処イヅクより 来キタりしものそ 眼交マナカヒに もとな懸カカりて 安眠ヤスイし寝ナさぬ
山上憶良・巻五 − 八〇二
○銀シロガネも 金クガネも玉も 何せむに
勝れる宝 子に及シかめやも
同・巻五 − 八〇三
すべもなく 苦しくあれば 出で走り
去イなと思へど 子らに障サヤりぬ
巻五 − 八九九
「苦しいので出奔しようと思うけれど、子どもらのことを想うと、それが出来ないで
いる」。
巻五には、年老いて病に苦しみながら、子供を想う歌七首が並んでいます。この子宝
の歌も、憶良の体験の所産でしょうが、仏説を引いた漢文序が盛られています。
国守と云いますと戦前の官選知事で、生活の窮乏から妻子を捨てて逃亡する農民も多
かっただけに、歌に託して教訓を垂れる必要があったのでしょう。
大化改新(645)以来百年、律令国家体制も憶良の頃になりますと、最早古い神々の信
仰ではどうにもならず、あちこちで矛盾が顔を出すようになっていました。思想の面で
も、風俗の上でも混乱の時期でした。
大和国添上郡に瞻保センホと云う男がおり、自分は孝の道を説く儒学者になったが、母親
を養おうとしませんでした。
春に政府が種蒔き用の籾を農民に貸し付け、秋に五割の高利を付けて取り立てる「出
挙スイコ」と云う制度がありました。これは一種の重税ですが、それに倣って瞻保も自分の
母親に稲の高利貸をしました。勿論母親は返せませんので、母を地面に座らせ、自分は
椅子に腰掛けて責めたてました。周りの人が見かねて稲を立て替えてやりましたが、哀
しんだ母親は泣きながら、乳房を出し「夜も寝ないで育てたのに、何と云う子だろう。
借りた稲を返したからには、お前も赤ん坊の頃飲んだ母乳代を返しておくれ」。このよ
うにして母子の縁を切ってしまい、瞻保は気が狂って死んだと云います(『日本霊異記
』)。
憶良は新しい道徳を求めて、或いは儒教的に、或いは仏教的にさすらいます。無意識
かも知れませんが、一種の個人主義の芽生えとも云えましょう。古代共同体の神々を祀
る場からも、律令官僚の宴席からも、憶良は、かつて詠んだ歌を口ずさみながら、一人
で中座しようとしています。
憶良らは いまは罷マカらむ 子泣くらむ
それその母も 吾を待つらむそ
巻三 − 三三七
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