073 「竜田路」
○わが行きは 七日ナヌカは過ぎじ 龍田彦
ゆめ此の花を 風にな散らし
高橋虫麻呂歌集・巻九 − 一七四八
竜田路は、かつて大和と河内・摂津とを結ぶ重要道路として人の行き交いは絶えるこ
とはありませんでした。しかし今は静寂そのもので、千数百年の歴史を飲み込んだ神秘
さを呈しています。
通説では竜田路の古道は、竜田本宮の前を通り、峠・雁多尾畑カリンドウハタの山道を経て
高井田方面に出たようです。
高橋虫麻呂はこの竜田路を歩いていて、何度も何度も振り返ります。ときには春三月、
山は満開の桜の香で満ちています。「私の難波の旅は七日とはかかりません。竜田の風
の神よ、この花を決して散らさないで下さい」。
虫麻呂は単に貴族的な発想で美の保存を祈ったに過ぎませんでしたが、風の神、即ち
竜田彦は当時その近辺で農耕をしていた人々には、もっと切実な祈りの対象でした。竜
田彦は近くの広瀬川合の神と共に農耕の神であったのです。竜田彦は妻の竜田姫と共に
仲睦まじく竜田本宮に祀られています。ところが、農民はもっと現実的で、竜田路の通
り抜けている神寂びた竜田の神名火の森に潜んでいると思っていたようです。その方が
いま考えても相応しい。竜田の森は秋になりますと、紅葉で赤く燃え上がるからです。
竜田の森にある竜田山は、生駒山脈の一部になっています。生駒山脈は大和人ビトにと
って一つの城壁であり、障碍でした。同時に大和と河内を境する山でもありました。西
へ旅する人は、生駒越えか竜田越えか大坂越えかの何ドレかを選ばなければなりませんで
した。竜田越えは越えやすい道でもありました。その道を行く人は、虫麻呂に限らずあ
る感慨を抱くのが恒でした。それは一種の異郷感とも云えました。例えば虫麻呂の後援
者と考えられる藤原宇合卿が西海道節度使となって赴任するときも、虫麻呂は「露霜で
竜田山が赤く色付くとき、あなたは遠い旅にお出かけになる。春になったら飛ぶ鳥のよ
うに早く帰っでお出で下さい。丘辺の道に赤い躑躅ツツジが咲映え、桜の花の咲くとき、
お迎えに参りましょう」と別れを惜しみました。また山上憶良も太宰府において、大伴
旅人が京の上るとき、次のように詠います。
人皆モネの うらぶれ居るに 竜田山
御馬ミウマ近づかば 忘らしなむか
山上憶良・巻五 − 八七七
竜田山は地方貴族、官僚の悲喜を二分する山でもありました。
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