071 「聖徳太子」
 
○家イヘならば 妹イモが手まかむ 草枕クサマクラ
 旅に臥コヤせる この旅人タビトあはれ
                         上宮聖徳太子・巻三 − 四一五
 
 この歌は「聖徳太子が竹原井へ遊びに出られたとき、竜田山で死人を見て、悲しみの
あまりお詠みになった」との詞書が付いており、「家にいたならば妻の介抱も受けたろ
うに、旅に病んで路傍で死んでしまった。何とも可哀想なことよ」と云う意味で、挽歌
の中に入っています。
 
 『推古紀』に拠りますと、聖徳太子が片岡において、道の辺に飢えて倒れている旅人
に衣食を与えました。
 翌日使いの者に見に遣らせますと、その旅人は既に死んでいたので、太子は大いに悲
しまれ、死んだ地に穴を掘って埋め、固く封印されました。後日、太子は近習等に「先
に見た旅人はただ人ではない。必ず聖ヒジリだろう」とおっしゃってまた使いを見に遣ら
せました。ところが封印がなかなか動かず、やっと開いて中を見ますと、死体は影も形
もなく、ただ太子の与えた衣服だけが畳んで棺の上に置いてありました。道教の「尸解
仙シカイセンのように・・・・・・。
 時の人は皆「聖は聖を知ると云うが、本当のことであったのか」と驚き、益々太子を
崇めた、との記述があり、そのときの歌として、
 
 しなてる 片岡山の飯イヒにゑ(飢)て臥コヤせる その旅人タビトあはれ
 親無しに 汝ナレ生ナりけめや さす竹の 君はや無き飯イヒに飢て 臥せる
 その旅人あはれ
 
を掲げています。
 これと同じ伝説が『日本霊異記』にも載っており、この死者は達磨ダルマ大師であった
と云っております。広島大学の所蔵する奈良時代の史料『七代記』などにも、この聖は
達磨なり、とあり、奈良時代既に太子と達磨大師との出会いを信じた跡が見えます。
 『万葉集』に載ったこの歌は、後の人が、時の文学の流れに沿って前記の長歌を短歌
形式に改め、太子の作としたのではないか、との説も出てきます。
 このような歌の背景には、豪族の争いや行き倒れ、餓死者の多かったことが窺えます。
 
 片岡山、今の北葛城郡王寺町王寺にある達磨寺には、聖徳太子像と達磨大師像が安置
されています。千手観音像を中に挟んで向かって左側、鎌倉時代の建治三年(1277)大
仏師法印院恵の刻んだと云う太子像は、珍しい衣冠姿で、ゆったりした感じの大らかな
肖像彫刻です。右側の達磨像は、少し下って永享二年(1430)奈良仏師の法眼集慶の作
ですが、周文と云う僧が彩粧したとの銘が胎内にあり、達磨像としてはわが国屈指と云
われる傑作です。
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