065 「大仏開眼」
 
○婆羅門バラモニの 作れる小田ヲダを 喫ハむ烏カラス
 瞼マナブタ腫ハれて 幡幢ハタホコに居り
                          高宮王・巻十六 − 三八五六
 
 天平勝宝四年(752)四月九日、東大寺の大仏は開眼しました。国を挙げての大法要が
華やかに営まれ、その導師を務めたのは、遣唐使と共に来朝した南印度生まれの菩提僊
那ボダイセンナ、俗に婆羅門僧正と呼ばれた高僧でした。
 「尊い婆羅門人ビト等の耕している田の穀物を啄ツイバんだ烏は、罰が中アタったのか、瞼
マブタが腫れて、小旗の付いた鉾先に止まっている」。何とも奇妙な歌です。恐らく「婆
等門、田、鳥、瞼、幡、幢を読み込んで一首作れ」と云う頓知トンチ紛いの題で詠ったので
しょうか。
 
 ところで東大寺の大仏は、実に十年の歳月を費やし、国中の富と技術の粋を注ぎ込ん
で造られました。行き詰まった律令体制、毎年にように続く流行病や凶作・・・・・・。その
反動のように、聖武天皇の目は次第に現実を離れ、仏教的な理想世界へと傾いて行きま
した。いわば大仏は、天皇の描いた強力な中央集権国家の象徴と云えましょう。大仏造
営に寄進した地方豪族には位を授けました。勲章とか位階は、元々このようなものでし
ょう。また雑戸ゾウコや奴婢ヌヒと呼ばれた賤民センミンには、造仏に協力すれば平民にしてや
ると約束しました。彼等は身を粉にして働きました。しかし大仏がほぼ完成しますと、
元の身分に返されてしまったと云います。「東大寺造って人民苦辛す・・・・・」。『東大寺
要録』に拠りますと、大仏の造営に動員されたのは、無償の労働奉仕が延べ三十七万人
を越え、雇われたもの約五十一万五千人、八回も鋳造し直した末に高さ約十六米の座像
は完成しました。使った銅二百五十噸トン、表面に塗った金は五七.五sなどと云われま
す。
 大仏開眼の際には、印度や中国の風を加味した舞楽が盛んに行われました。
 
 ひみがしの 山傍ヤマビをきよみ 新鋳ニイイせる
 廬遮那仏ルシャナホトケに 花たてまつる
 
 この歌は開眼のときの歌として『東大寺要録』に残されていますが、大伴家持は大仏
開眼の歌を作っていません。家持は大仏造営を喜ばなかったのでしょうか、それとも政
治的闘争が禍いしたのでしょうか。
 四年後の天平勝宝八年、光明皇太后は亡夫聖武帝の遺品を東大寺に献じ、更に後には
文書、調度なども献じました。即ち今日の正倉院の宝物です。
 わが国の彫刻史上最も芸術的薫りが高いと云われる天平期の大仏は、二度の火災に焼
け爛タダれ、現存するものは江戸時代のものです。やや小さくなり、創建当時の面影を留
めているのは蓮座の一部と云います。
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