064 「雲雀ヒバリの歌」
○春の野に 霞たなびき うら悲し
この夕かげに 鴬鳴くも
大伴家持・巻十九 − 四二九〇
○わが屋戸ヤドの いささ群竹ムラタケ 吹く風の
音のかそけき この夕べかも
同・巻十九 − 四二九一
○うらうらに 照れる春日ハルビに 雲雀あがり
情ココロ悲しも 独りしおもへば
同・巻十九 − 四二九二
春日山から流れる佐保川が奈良市内に入る佐保の辺りに、大伴氏の邸宅がありました。
天平勝宝五年(753)家持が三十五歳の頃、彼は越中から帰りました。
家持の最高の作と後の世で評価されたこの三首は、万葉の歌に新しい孤独の境地を拓
いたものとして、誰にも知られています。左注には、彼は詩経を引いたりしてこのよう
に記しています。「春日遅々として、鴬正に鳴く。かなしびのこころ、歌にあらずばは
らいがたし」と。
「悲しみは歌でなければ払い退けられない」と云うのは、家持によって初めて自覚的
に創り上げられた新しい詩境です。
ここで家持の「かなし」は、現代の我々とほぼ同じく「悲哀」の意味に使われていま
すが、もっと以前には心に迫って来るもの全てを「かなし」と表現しました。それが次
第に分化して来たのです。混沌とした「かなし」の中から、最も鋭く心に迫る「悲哀」
が主調になります。それを意識的に使ったのは、家持において最初であったようです。
このような詩境の裏には、恰も前年の大仏開眼を初めとする絢爛の時代の中での、大伴
氏没落の哀感がありました。
家持が越中にある間に、聖武天皇は病のため退位し、頼りにしていた橘諸兄が退潮し、
代わりに孝謙女帝を得て藤原仲麿が勢力を伸ばしていました。大伴氏は衰退の一途です。
家持に執って、かつて詠い上げた数々の歌は、空しい過去の栄光の記録として映り、
細い神経の持ち主と云われた作者が、やっと辿り着いた境地ではなかったのでしょうか。
ある人はこれを、万葉の終末と云い、ある人は文学への出発であると云われます。
大伴氏と関係深い奈良市の「左保」は、今は住宅が密集していますが、左保川に沿っ
て一歩足を春日山の方へ向けますと、雲雀囀サエズる田舎道が柳生の里へと開けています。
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