063 「桃李トウリ」
 
○春の苑ソノ くれなゐ(紅)にほふ 桃の花
 下照シタデる道に 出で立つをとめ
                         大伴家持・巻十九 − 四一三九
 
○わが園に 李の花か 庭に散る
 はだれのいまだ 残りたるかも
                            同・巻十九 − 四一四〇
 
 「春の園に紅クレナイにおう梅の花、その赤く映える道に少女が立っている」。絵画的な
歌は数多くありますが、これほど一つの色彩に全体を包み込んでしまう感じの歌は少な
いでしょう。この歌は奈良で詠まれたものではありません。天平勝宝二年(750)家持が
越中守として、現在の富山県高岡にいたときの作です。名門の出でありながら藤原氏の
勢いに押されて不遇にあった家持は、東大寺の荘園が盛んであった地方の長官として赴
任、常に心を離れぬ大和への望郷の念を押さえ、作歌に務めていました。自然や人生な
ど歌の材料は豊富にありましたが、家持の心を捉えていたものは、当時最新の知識であ
った中国の絵画や文学ではなかったでしょうか。
 例えば李白に「春苑桃李花」と云う詩があり、如何にも家持の歌と近い。春の苑と云
う言葉からして春苑の訳語でしょう。苑も園も中国的な庭園の意味で、共に外来のもの、
これに対して庭は神の庭、仕事場を意味しましたが、家持は区別せずに使いました。貴
族的な庭園趣味も発生していたようです。
 
 晩春の北国の夕暮れは、大和とは異なった趣がありました。美しく輝く夕日、その夕
日に一層濃い艶アデやかさを増す桃の花、そしてその中には唐風の美少女が・・・・・・。果た
して家持が実際にそうした風景を見たのでしょうか。この歌に続く李の歌と共に、中国
好みの桃李と云う題からの題詠であったかも知れません。そうであったとしても、この
ような雰囲気の中には美しい少女の登場することが、家持にとってはどうしても必要条
件であったでしょう。
 李は中国では桃と共に珍重されましたが、花が地味なせいか、『万葉集』では家持の
この歌一首だけです。
 「わたしの家の庭の李の花が庭に散ったのだろうか。それとも庭に降った雪が未だ残
っているのだろうか」と云う歌も、歌から受ける色彩的な心象(イメージ)は可成り異なり
ますが、歌から景色が目に浮かんでくるような絵画的な感じです。
 その夜、家持は次のような歌を作りました。
 
 春まけて 物がなしきに さ夜ふけて
 羽ぶき鳴く鴫シギ 誰タが田にか住む
                              巻十九 − 四一四一
 また翌日には、猫柳を捩りながら詠います。
 
 春の日に 張れる柳を とりもちて
 見れば都の 大路おもほゆ
                              巻十九 − 四一四二
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