062 「おぼろ月夜」
 
○春日山 霞たなびき 情ココロぐく
 照れる月夜ツクヨに 独りかも寝む
                          大伴坂上嬢・巻四 − 七三五
 
○月夜には 門に出でたち 夕占ユフケ問ひ
 足卜アシウラをそせし 行かまくを欲ホり
                           大伴家持・巻四 − 七三六
 
 「春日山に霞がたなびき、月もおぼろに霞む夜ですのに切ない想いで、独り寝るので
ございましょうか」と詠いますと、「月の夜には門まで出て、道行く人の言葉で占い、
またあの目標へ右足で歩き着けば吉、左足なら凶・・・・・・と、逢いに行きたい一心で、何
度占ったことだろう」と答えます。
 大嬢は、家持の叔母である坂上郎女の娘で、従兄妹同士です。然も家持の母が早く亡
くなったので、二人は坂上郎女の手で兄妹同様に育てられましたが、多感な少年と少女
のこと、何時しか淡い恋が芽生えました。しかし、それが大人の恋となって燃え上がっ
たのは、何年かの別離の後でした。
 
 玉ならば 手にもまかむを うつせみの
 世の人なれば 手にまきがたし
                           坂上大嬢・巻四 − 七二九
 
 あはむ夜は いつもあらむを 何すとか
 その夕ヨヒあひて 言コトの繁シゲきも
                              同・巻四 − 七三〇
 
 二十歳前後で宮仕えを始めた名門の貴公子家持の周辺には、華やかな噂が絶えません
でした。あるときは戯れ、あるときは苦しみながら、家持の恋の遍歴が続きます。
 
 戯奴ワケがため あが手もすまに 春の野に
 抜ける茅花そ 食して肥えませ
                           紀郎女・巻八 − 一四六〇
 
 痩せ過ぎで、如何にも感受性の鋭そうな青年であったらしく、「あなたのために、一
生懸命に摘んだ茅花ツバナですよ。召し上がってお太りなさいませ」と揶揄カラカわれていま
す。どうやら紀郎女の方が年上のようです。負けずに家持も答えました。「身も痩せる
程恋い焦がれているのです」と。
 
 あが君に 戯奴ワケは恋ふらし 賜タバりたる
 茅花を喫ハめど いや痩ヤせに痩ヤす
                               巻八 − 一四六二
 
 父の旅人や叔母の坂上郎女から手解きを受けた家持の歌も、恋歌の遣り取りを通じて
研かれて行きます。巻四には家持を巡る多くの女性の歌が載っていますが、中でも笠郎
女が家持に贈った二十四首は、一際光っています。
 
 君に恋ひ 甚イタに術スベなみ 奈良山の
 小松が下モトに 立ち嘆くかも
                                巻四 − 五九三
 
 苦しみながら、一体家持は何を求めていたのでしょう。
 
 かくばかり 恋ひつつあらずは 石木イハギにも
 ならましものを 物思モはずして
                                巻四 − 七二二
 
 こうしたとき、坂上大嬢と再会したのです。逢はずに過ごした何年かの空白を取り戻
すかのように、切ない恋の歌を交わしました。「遊仙窟(前出)」に出た歌は、このと
き坂上大嬢に宛てたものです。家持は大嬢を迎えました。或いは少年の頃心に焼き付い
た美しい叔母の心象(イメージ)も纏わっていたのかも知れません。
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