060 「おをによし」
 
○あをによし 寧楽ナラの京師ミヤコは 咲く花の
 薫ニホふがごとく 今盛りなり
                          小野老オノノオユ・巻三 − 三二八
 
 小野老は、この歌を九州筑紫の国において詠みました。「あおによし」は奈良坂近く
で青い土が多く出て、顔料に用いたとの記録があり、奈良の枕詞になったようです。
 奈良の都は、当時の絢爛たる唐風文化の影響を受け、貴族の邸宅に唐風の青瓦や赤瓦
を使うことが許されるようになっていました。青丹よし、と云う枕詞には、そのような
意味の変化も生じていた、と考えられるのです。そして、それらの異国風の貴族邸宅の
裏には、長閑ノドカな田園が広がっている − 奈良の都はそうした姿であったでしょうか。
 ”咲く花のごとく”盛んであったのが、天平の何時頃から何時頃まででしょうか。天
平勝宝四年(752)の大仏開眼は、この作者の死後十四、五年の後でした。
 
 しろがね目抜きの刃をさげはきて 奈良の都を練るは誰が子ぞ 練るは誰が子ぞ
                                    神楽歌
 
 白馬銀鞍に打ち跨った好男子が横行した王朝の夜明けを最もよく表したのは、矢張り
この歌以外にはありませんでした。『万葉集』において、都を花に例えたのはこの歌が
最初です。
 故郷を失いかけている現代の人々の奈良に向ける目は、絶えず厳しく、激しい。その
心の底には「あおによし・・・・・・」の心象(イメージ)が生き続けているのかも知れません。
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