059 「長屋王ナガヤノオオキミの変」
 
○大君オホキミの 命ミコト恐カシコみ 大殯オホアラキの
 時にはあらねど 雲がくります
                          倉橋部女王・巻三 − 四四一
 
 近鉄生駒線平群駅の辺り、田圃の真中に長屋王の墓があり、後を追って自殺した妃吉
備内親王の墓も、その向こうに見えます。
 神亀六年(729)春二月、若い聖武天皇は長屋王が皇位を狙っているとの流言を真に受
け、奈良の佐保にあった王の屋敷に夜襲を掛けました。そして王は申し開きの機会さえ
与えられず、四人の子等と共に自害しました。流言は藤原氏の策謀であったと云われま
す。
 「未だお亡くなりになるときではないのに、天皇のお言葉をかしこみ、長屋王はお隠
れになってしまった」 − この歌の作者の伝記は分かりません。然サり気ない挽歌のうち
に、当時の宮廷人の動揺が窺えます。
 
 長屋王の変は、藤原一族の将来が賭かっていたとも見られます。藤原氏出身の光明子
夫人の生んだ皇太子が、その前年の九月に満一歳の誕生日を目前にして病死しました。
然も別の夫人に皇子が生まれました。最早光明子夫人を皇后に立てる以外に”藤原政権
”を守る道はありません。しかし幾ら全盛を誇ってはいても、藤原氏は臣下ですので、
光明子夫人の立后には長屋王等の強い反対が予想されました。王は天武天皇の孫であり、
然も左大臣なのです。
 「皇太子が若死にしたのは、左大臣が呪ったため」との密告があったのです。
 吉備内親王の墓は馬酔木アセビの花に覆われていました。耳を澄ますと鴬の声も聞こえ
ます。
 
 佐保過ぎて 寧楽ナラの手向タムケに 置く幣ヌサは
 妹イモを目離カれず 相見しめとそ
                            長屋王・巻三 − 三〇〇
 
 「奈良山の峠に幣ヌサを置くのは、何処へ行っても妻の姿を見せて下さいとの気持ちか
らです」。漢詩を好み、学問を愛した王の佐保の屋敷は、まるで文人の社交場であった
と云います。長王詩苑での詩が幾つか『懐風藻』に載せられています。
 なお、墓の近くの池底に、石を丸く積んだ塚が半ば沈んでおり、昔から土地の方はこ
れを”扇型の塚”とも呼び、この石塚と、長屋王、吉備内親王の墓を結びますと、一辺
百米程の扇型になります。もしや一緒に亡くなった四人の子供達の墓ではないでしょう
かとも云われています。
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