055 「島の宮」
 
○島の宮 勾マガリの池の 放ハナち鳥ドリ
 人目に恋ひて 池に潜カヅかず
                           柿本人麿・巻二 − 一七〇
 
 皇太子に立てられながら遂に即位することなく病死した日並皇子 − 草壁皇子を悼む
挽歌です。「皇子が住みたもうた島の宮、その勾の池に放し飼いの水鳥も、皇子が亡く
なられてからは淋しがってか、頻りと人目を恋しがり、水に潜ろうとさえしない」。
 
 東ヒムガシの 滝の御門に 侍サモラへど
 昨日も今日も 召すこともなし
                         日並皇子舎人・巻二 − 一八四
 
 朝日照る 鳥の御門に おほほしく
 人音もせねば まうら悲しも
                              同・巻二 − 一八九
 
 何れも人麿の指導を受けつつ、皇子に仕えていた舎人達の歌です。
 島の宮は、今の明日香村鳥ノ庄にあったらしい。其処は多武峰から発した細川(冬野
川)が飛鳥川に合流する地点で、島のようにも見えたのでしょう。この付近には古くか
ら帰化人が住み、早く拓けました。六〜七世紀にかけて勢力を奮った蘇我馬子も、此処
に居を構えていたと云われます。現在石舞台と呼ばれている巨大な石室は、馬子の墓で
あったと云います。
 
 当時凄い勢いで襲って来た大陸文明は、小林秀雄氏の表現を借りますと、「日本文明
の黎明レイメイに現れた不気味な朝焼け」のようでした。その中で、最も赤々と染まったの
が馬子であったとも云えます。馬子は先頭に立って仏教を受け入れ、反対派の物部氏を
破って伸ノし上がった新興勢力でした。遂には腹心の帰化人東漢直駒ヤマトノアヤノアタイコマに崇峻
天皇を暗殺させ、更に駒をも殺しました。一説には駒に操られ、裏切られて惨劇を繰り
返したとも云いますが、何れにしろ血のような朝焼けの中で、馬子は絶対的な権力の座
に昇りました。
 しかし蘇我氏の全盛時代は六四五年、大化改新によって終止符を打たれました。馬子
の墓と伝えられるこの古墳も、既に平安時代の頃に暴アバかれ、露出していたらしい。
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