051 「飛鳥の春」
 
○春されば 花咲きををり 秋づけば 丹ニの穂にもみつ
 味酒ウマサケを 神名火山カムナビヤマの 帯にせる
 明日香アスカの川の 速ハヤき瀬に 生オふる玉藻の うち靡ナビき
 情ココロは寄りて 朝露の 消ケなば消ケぬべく
 恋ひしくも しるくも逢アへる 隠妻コモリヅマかも
                         作者未詳・巻十三 − 三二六六
 
 飛鳥川に沿って、南に連なる山並みの懐へと遡りますと、広やかな谷間の段々畑は、
麦の緑、菜種の黄、蓮華の紫に彩られ、大和棟の旧家には、白い杏の花が咲いています。
稲淵、栢森カヤノモリなど、曲がりくねった道の一q毎に、鄙びた集落が現れます。
 芋峠まで山道を登りますと、笹鳴きの鴬の声が聞こえます。「高取山からこの辺りの
山並み、飛鳥川の源流、これらをどう見るかによって、その人が万葉の歌をどう受け止
めるかが決まって来るような気がする」と云う人さえあります。
 
 「春になると花が咲き撓タワみ、秋には赤く色付く神名火山が帯にしている飛鳥川の、
速いこの瀬に生えている藻のように、打ち靡いて心はあなたに寄り、朝露のように消え
るなら消えてもいいと、命賭けで恋していた甲斐があって、やっと逢えたなあ、忍び妻
よ」。
 この歌は天平時代の歌と見る人もいますが、華やかな中にも、どこか古朴な響きがあ
ります。「花咲きををり」とか、「帯にせる明日香の川の」など、同じ表現を使った歌
が他にも見られ、何れも古い飛鳥川の水の女神を讃える詞章から出ているようです。美
しい水の女神の心象(イメージ)、長閑ノドカな飛鳥の春の風景です。それらが、人目を忍ぶ
妻の面影と二重写しになって来ます。
 
 栢森には加夜奈留美命カヤナルミノミコト神社があります。この辺りで三つの渓流が集まり、飛
鳥川の源流となりますが、成るほど”鳴水ナルミ”です。ひっそりとした家並みに、渓流の
音だけが高く響きます。やや下った稲淵には、飛鳥川上坐カワカミニイマス宇須多岐比売命ウズタキ
ヒメノミコト神社があります。飛鳥地方には三十近くの神社があると云い、権力者の盛衰によ
って、方々にいろいろな神社が出来たのでしょうか。何れも飛鳥川の水の女神をお祀り
しているようですが、この地方が拓けたのは、何と云っても飛鳥川のお陰なのです。
 栢森から東の谷を入谷ニフダニと呼び、此処には丹生津姫ニフツヒメの伝説があります。美し
い水の女神が紀ノ川を遡り、吉野、宇陀から山を越えて飛鳥川の源流へとさまよいます。
 この辺りから縄文土器が出土することなどから考え合わせますと、この経路に沿って
開墾され、農耕文化が拓けて云ったとも見られます。水の女神は豊穣の象徴であったの
です。
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