049 「梅花の宴」
 
○春されば まづ咲く屋戸ヤドの 梅の花
 独り見つつや 春日ハルヒ暮クラさむ
                           山上憶良・巻五 − 八一八
 
○わが園ソノに 梅の花散る ひさかたの
 天アメより雪の 流れ来るかも
                           大伴旅人・巻五 − 八二二
 
 天平二年(730)正月十三日、太宰府長官大伴旅人の家は来客で賑わっていました。今
日は新春の宴会で、集まって来たのは、遥々奈良の都からこの地に赴任している官吏ば
かりです。都に居るような華やかさはありませんが、とにかく正月は気分が改まります。
こんな機会にもふと都のことが頭の中を過ヨぎる、と云う点でも同じ境遇です。集まった
人数は三十二人で、太宰府の役人は多いときで百人、少ないときは六十人位であったと
云います。
 立春を過ぎた柔らかい風は、梅の香を運んで来ます。実に良い気分で、みんな互いに
寛クツロいで、膝を交え、酒杯を巡らします。こんないい気分を、そのままにしておくのは
惜しいではないか、さあ歌を詠もうではないか。
 
 梅は当時、中国渡来の花として珍重されていました。中国に近い太宰府には梅の木も
多く植えられていたのです。後には桜が花を代表するようになりますが、この頃は梅の
花に人気がありました。『万葉集』においては桜の歌四十二首に対し、梅は百十八首も
あります。
 憶良の歌の解釈は難しい。「春になると最初に咲くこの家の梅の花をたった一人で見
ながら、長い春の日を暮らすべきだろうか」と採りますと、反語となって「矢張り皆で
賑やかに見るのがよい」となって、華やかな宴会での歌としては無難です。もう一方の
解釈では「折角咲いた花を一人で見るのは惜しいが、そうなるだろう」と云うもので、
これでは宴会の気分に水を注すようです。「独り見つつや」の「や」の解釈によって違
う訳ですが、憶良の面目は、後の解釈の方がぴったり来るように思われます。

 この宴会の主人旅人は当時六十六歳で、妻を失い、都を遠く離れた境遇は見方によっ
ては「恵まれない」とも云えますが、太宰府の長官と云いますと大変な重責を担ってい
ます。この場では落ち着いて詠っています。
 梅花を詠う歌には盛んに「園」と云う言葉が使われています。本来「庭」は「神の降
オりる所」「仕事をする場所」の意味があって、眺めて楽しむ「園」とは違っていまし
た。園は矢張り中国伝来の庭園趣味で、こう云う言葉を使うのにも、風流の意識が働い
ていたのでしょうか。
 
 梅の花 夢に語イエらく 風流ミヤびたる
 花と我思ふ 酒に浮べこそ
                                巻五 − 八五二
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