048 「世間ヨノナカの道」
 
○世間を 憂しとやさしと 思へども
 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
                           山上憶良・巻五 − 八九三
 
 大伴旅人が斜陽ながらも名門貴族の家に生まれたのに比べて、憶良の家柄は遥かに低
いものでした。苦学に苦学を重ねましたが、四十歳を過ぎるまで無位、筑前国守になっ
たときは、既に七十歳近かった。それだけに、貧乏の苦しさは彼自身よく知っていまし
た。また国守として、具ツブサに見た農民等の悲惨な生活も、目に焼き付いていました。
ところが五年間の国守務めを終えて都に帰って見ますと、此処にも貧しい生活があるで
はないか。
 貧窮問答歌は、長歌と反歌が一首ずつあり、これを一体誰に「謹上」したのでしょう。
当時、勢力を奮っていた藤原房前フササキにでは、と云う説があります。
 平城遷都(710)から約二十年、隋や唐に真似た律令体制の行き詰まりは、いよいよ深
刻化し始めていました。皇族や貴族を中心とした官僚国家造りの歪ヒズみなのでしょう
か、多くの庶民は重税に喘アエいでいました。その上鞭を振り回して「短いものの端を更
に切って取る」ような悪どい役人も多かったらしい。
 「世の中は、こんなにも辛く、恥ずかしくて身も痩せる程に苦しいところとは思うけ
れど、かと云って空へ飛び立つことも出来ない。鳥ではないので・・・・・・」。「やさし」
は痩ヤせると云うのと共通する、未だ古い意味のようです。
 
 幾ら苦しくともじっと現実を見つめながら、懸命になって生きて行く、これが憶良の
姿勢でした。勉強もした当時の新知識を、貪るように吸収し、第七次遣唐使の一行に加
わって唐へも渡りました。仏教、儒教、道教、老荘思想、何でも手当たり次第に学びま
した。例えば貧窮振りの表現には、『後漢書』や陶淵明の詩など大陸文学の影響が広く
見えます。問答形式にしても、その影響もあると云えましょう。
 輸入文化に敏感であったインテリの悩みと混乱、憶良は虐シイタげられた民衆の姿に、自
分の内面的な苦しみの似姿を見たのかも知れません。共に「時代の歪み」が生んだもの
で、執拗なまでに目を反らさず、貧困、病気、老衰、死などを詠う、寒々とした台所の
蜘蛛の巣も鋭く見逃しませんでした。
 斯くして憶良の歌からは、柿本人麿とは異なった意味で作者の肉声が聞こえるような
気がします。低音で何かブツブツ言っているような声です。遂に詠嘆に留まったとして
も、飽くまで目に見た姿を描写する声 − それが返って、今日にも通じる社会の矛盾や
政治悪を、一層鮮やかに抉エグり出す結果になっています。
 ところが憶良の歌は、いわゆる「美の世界」からは遠いとして、平安以後殆ど問題に
されなくなりました。彼の歌の中に息衝いている赤裸々な人間の願いや悲しみ苦しみが
再評価され出したのは、近代になってからです。
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