047 「貧窮問答歌」
○風雑マジり 雨降る夜ヨの 雨雑り 雪降る夜ヨは
術スベも無く 寒くしあれば 堅塩カタシホを 取りつづしろひ
糟湯酒カスユザケ うち啜ススろひて 咳シハブかひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ 鬚ヒゲかきなでて 吾アれを除オきて 人はあらじと
誇ろへど 寒くはあれば 麻衾アサブスマ 引き被カブり
布肩衣ヌノカタギヌ 有りのことごと 着そへども 寒き夜ヨすがら
我ワレよりも 貧しき人の 父母チチハハ は 飢ゑ寒コゆらむ
妻子メコどもは 乞ひて泣くらむ この時は 如何にしつつか 汝ナが世は渡る
天地アメツチは 広しといへど 吾アがためは 狭サくやなりぬる
日月ヒツキは 明アカしといへど 吾アがためは 照りや給タマはぬ
人皆か 吾アのみや然シカる わくらばに 人とはあるを
人並ヒトナミに 吾アレもなれるを 綿ワタも無き 布肩衣ヌノカタギヌの
海松ミルの如ゴト わわけさがれる 襤褸カカフのみ 肩にうち懸カけ
伏廬フセイホの 曲廬マゲイホの内に 直土ヒタツチに 藁ワラ解き敷きて
父母は 枕マクラの方カタに 妻子メコどもは 足アトの方に
囲カクみ居て 憂へ吟サマヨひ 竈カマドには 火気ホケふき立てず
甑コシキには 蜘蛛クモの巣懸カきて 飯イヒ炊カシく 事も忘れて
ぬえ鳥の 呻ノド吟ヨひ居ヲるに いとのきて 短き物を
端ハシ截キると 云へるが如く 楚シモト取る 里長サトヲサが声は
寝屋戸ネヤドまで 来キ立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術スベ無きものか 世間ヨノナカの道
山上憶良・巻五 − 八九二
「讃酒歌」の大伴旅人と「貧窮問答歌」の山上憶良 − この二人の出合は興味深い。
共に晩年、旅人は太宰府の長官、憶良は筑前国守として、遥か都を離れた地で知り合い
ました。こうしていわば筑紫歌壇の”二つの星”は、互いに意識しながら、それぞれに
新しい歌の分野を拓いて行きます。「貧者」と、それよりもっと貧しい「窮者」との対
話、こんな世界をこんな形で詠った歌人は、憶良が初めてでした。
唐に学び、壮大な律令国家の体制は整っていましたが「貧困との戦い」は、その後も
長く取り残されたまま、凶作が続いたと云っては遷都し、悪病が流行れば寺を建て・・・・
・・。その度に土木事業に駆り出される民衆の生活は、益々苦しくなります。奈良時代の
記念碑とも云うべき東大寺の大仏が出来たのは、憶良が死んで約二十年後のことでした。
大仏殿に降る雪は風流とも云えましょうが、萱葺き屋根と土に筵のあばら屋で過ごす霙
ミゾレの夜は悲惨です。
貧者「風まじりに雨が降り、雨まじりに雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、
堅くなった黒塩を少しずつしゃぶり、酒糟を湯でといたのをすすりながら、咳をしたり、
鼻をすすったり。わずかばかりの鬚をなでて、自分ほどの人間はあるまいと、自惚れて
はみても、なんとも寒いので、麻の夜具をひっかぶり、袖なしをありったけ着込んだが、
それでも寒い。こんな夜、自分より貧しい人の父母は、飢えて寒いことだろう。妻や子
は、なにくれと弱々しい声で泣いていることだろう。こういうとき、お前はどうやって
生きているのか」。
窮者「天地は広いというけれど、自分のためには狭くなったか。日や月は明るくても、
私のためには照って下さらぬのか。誰でも、こんな具合なのだろうか。それとも私一人
だけか。たまたま人間と生まれ、一人前になったのに綿もない布だけの袖なしの、さけ
て海松ミルのように垂れ下がった襤褸ボロばかりを肩に懸け、倒れ懸かった小屋の中に、地
面へ直接藁を敷いて、父母は枕元の、妻や子は足の方に、自分を囲むように座って嘆き
うごめくが、竈からは湯気も立たず、飯を蒸す甑には蜘蛛が巣を懸けている。飯を炊く
ことも忘れ、ぬえ鳥のように細々と呟ツブヤいているのに、短いものの端を更に切るとの
諺コトワザ通り、鞭ムチを持った里長の声が、寝ている小屋の戸口にまで入ってきて怒鳴る。
このように、どうすることも出来ないものなのか、人間の生きて行く道は」。
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