045 「遊仙窟ユウセンクツ」
○暮ユフさらば 屋戸ヤド開け設マけて われ待たむ
夢イメに相見に 来むといふ人を
大伴家持・巻四 − 七四四
○夢の逢アヒは 苦しかりけり 覚オドロきて
かき探れとも 手にもふれねば
同・巻四 − 七四一
初唐の張文成(657〜730)に『遊仙窟』と云う小説があります。
− 「わたし」は地方回りの役人でした。あるとき、故郷遠く転勤させられ、見たこ
ともない山中に迷い込みました。切り立ったような絶壁、白く走る水・・・・・・。土地の古
老に訊ねますと「あの峰は仙人の住む処じゃ」。見たい一心で身を浄め、蔦に縋スガり、
川を伝わって登って行きますと、俄ニワかに桃の里へ出ました − 。
と云う訳で、美しい姉妹の住む仙境に辿り着き、夢のような一夜を過ごしました。そ
の、妖しいまでに美しい世界を、歌をふんだんに交えて描いたもので、当時の大衆小説
であったようです。しかし唐の史書『唐書』に拠りますと、日本や新羅からの使者が千
金を投じ、競ってこの本を買い漁ったと云います。長安には既に本屋があったのでしょ
う。
こうして『遊仙窟』は仏典などと一緒に、恭しく遣唐使によってわが国へ伝えられま
した。それは八世紀の初期、山上憶良等が帰朝したときと考えられます。初めて見る外
国小説で、然も憧れの的である唐の小説です。当時の知識人は競って読んだようです。
『遊仙窟』は、印度の漢訳仏典の影響を受けたらしく、歌と散文を交錯させた文学形
式で、この形式は『古事記』にも感化の痕があると云われます。奈良時代の中期になり
ますと、万葉集の歌にもその影響が現れ始めます。例えばこの二首は、家持が恋人の坂
上大嬢オホイラツメに贈ったもので、なかなか気の利いた表現ですが「せめて病めにでも現れ
てほしいと戸を開けて待つ」のも、「ハッと目が醒めて手を差し伸べたけれど、むなし
く空を抱いた」と云うもので、どうやら『遊仙窟』から出ているようです。
ところがこの小説は、かなり露骨な描写があるため禁書なったのか、それとも文学的
に無視されたせいか、肝心の本国では滅び、わが国だけに残りました。京都の醍醐寺と
名古屋の真福寺に十四世紀の立派な写本が伝わっています。
中国でも一九二九年、わが国から逆輸入して出版されました。「遊仙窟の全文ようや
く中華の地に還る」と云って魯迅が喜んだと云います。
『遊仙窟』の影響か、それとも偶然の一致でしょうか、万葉集にはまた次のような歌
も入っています。
人の見て こと咎トガめせぬ 夢イメに我
こよひ至らむ 屋戸さすなゆめ
作者未詳・巻十二 − 二九一二
うるはしと 思ふ我妹ワギモを 夢に見て
起きて探るに 無きがさぶしさ
同・巻十二 − 二九一四
[次へ進む] [バック]