044 「遣唐使」
 
○天雲アマグモの そきへの極み わが思モへる
 君に別れむ 日近くなりぬ
                        阿倍老人オキナ・巻十九 − 四二四七
 
 一見華やかな存在も、その裏を見ますとそれなりの悲哀や苦悩があるものです。東支
那海の荒海を乗り越え、唐文化の輸入に務めた遣唐使は、才能は元より、顔、形まで、
抜群でなければなりませんでした。唐に滞在中、見るもの聞くこと、全て新知識として
身に付け、帰国しますと宮廷での重要な地位が待っているのです。
 しかしこの旅は、生やさしいものではありませんでした。文字通り命賭けの旅であっ
たのです。
 「雲を距てて遥かに遠く、あなたと別れて海の彼方へ旅立つ日が近づいて来ました」。
この歌の「わが思へる君」は最愛の母のことです。
 一方母が旅行く子のことを思って詠んだ歌もあります(巻九 − 一七九〇)。こんな
旅にわが子を、しかも、一人っ子を出す母が、のんびりしていられる訳はない。呪いで
も何でもして、わが子が無事に帰ることを祈ったのです。
 
 遣唐使は舒明二年(630)から宇多天皇の寛平六年(894)までの二百六十年間に亘り、
十八回派遣が計画され、このうち三回が中止されました。また遣唐使と云っても、来朝
した唐使を送って行った送唐客使が二回、入唐したまま帰って来ない遣唐使を迎えに行
ったものが一回あり、唐の制度文物の輸入を目的とした遣唐使は十二回と云うことにな
ります。初めは一行百二十人前後で、船は一、二隻でしたが、段々増えて、終わり頃に
は一行六百五十人位になっていました。派遣計画が決まりますと、大使以下一行が任命
され、船が造られ、出発前には一行を指揮する大使に死罪以下の罪を処断する権能を執
行する「節刀」が与えられました。友人との間には送別の宴が設けられ、送別の歌を贈
答しました。
 難波の三津浦から出港した一行の船旅は、三、四十日を要しました。積み込まれる食
糧や水は限られていました。無事荒波を乗り切っても、唐の国は風土が違います。また
旅の疲れによる身体の衰弱なども考えられます。航海術もあまり高度ではなく、季節風
の利用もおぼつかない旅なのです。
 親兄弟が、異国に旅する肉親を案じる。そして、無事に唐に着いて、新知識の吸収に
夢中になっていたとしても、ときには堪らない望郷の念が押し寄せます。
 
 いざ子ども はやく日本ヤマトへ 大伴の
 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
                            山上憶良・巻一 − 六三
 
 「さあ人々よ、早く大和へ行こう。大伴の御津の浜松がわれわれを待ち焦がれている
だろう」。
 
 大伴の 御津の松原 かき掃きて
 吾立ち待たむ 早帰りませ
                              同・巻五 − 八九五
 
 灘波津に 御船泊ハてぬと 聞え来ば
 紐とき放ザけて 立ち走りせむ
                              同・巻五 − 八九六
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