042 「平城遷都」
○人もなき 古フりにし里に ある人を
めぐくや君が 恋に死なせむ
作者未詳・巻十一 − 二五六〇
和銅元年(708)二月、元明天皇は遷都の詔を出されました。このとき、元明女帝は
四十八歳で、藤原京の北方二十q、平城の地は東に川、西に道、南に池、北に山があっ
て、正に中国古来の陰陽思想に云う「四禽図に叶って」います。長い間、天皇の宮と云
いますと飛鳥地方と考えられていましたのに、其処を捨てて奈良山の麓へ移ろうと云う
のです。
当時、全国的な凶作や流行病に悩まされていました。そこで一つには、遷都によって
心機一転し、国の危機を乗り切ろうとする狙いがあったと観られます。飛鳥の豪族の勢
力を避ける意味もあったかも知れません。また三十年振りの第七次遣唐使が丁度この頃、
次々に帰って来ては唐の都長安の威容を伝えました。「大和三山に囲まれた飛鳥地方で
は、統一国家の首都を置くのに狭セマ過ぎます」と。大宝律令を制定した後の藤原不比等
などの貴族等の意気は盛んでした。
まず遷都に備えて役人の大移動、その年の暮れに地鎮祭、いよいよ大工事が始まりま
した。東西約4.2q、南北約4.7qを築地塀で囲み、整地して碁盤の目のように道を付け
ます。長安(東西9.7q、南北8.2q)には及びませんが、大和盆地ではこれで精一杯で
した。秋から冬にかけ農閑期毎に何万人と云う農民が地方の諸国から大動員されました。
和銅三年三月(一説に二月)、工事が大体整ったところで遷都、しかし完成までにな
お数年を要しました。翌四年、諸国から駆り出されて来た農民等のうち、強制労働に耐
えかねて逃亡する者が続出しました。武装した兵士が監督していましたが、その兵士さ
えも逃げ出す始末でした。同五年正月の勅書には「諸国の役民、郷にかえる日、食糧絶
え乏しくて多く道路に飢え、溝にまろび、うずむるもの、その類すくなからず・・・・・・」
とあります。
見事な都市計画でしたが、その礎になった農民の数もまた、厖大なものであったよう
です。
官僚は挙げて都に遷り、妻子や愛人等は旧藤原京に残って、寂しく留守を囲っていま
した。
「こんなひと気もなくなった淋しい里に、私一人を置き去りにして、焦がれ死にさせ
る気なの」と嘆く女など、遷都の蔭に泣いた人も可成りいたことでしょう。
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